近年では子供を誘拐して身代金を要求すると言う事件はほとんどなくなりましたが、昭和の時代には珍しくなく、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」のような世間に衝撃を与えた残酷な事件もありました。
この記事では、戦後最大の誘拐事件と言われる「吉展ちゃん誘拐殺人事件」について、吉展ちゃんの死因、犯人・小原保の生い立ちや実家の家族、そして犯人・小原保の死刑執行とその後の様子などを詳しくまとめました。
この記事の目次
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の概要
世間を揺るがした凶悪事件
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」とは、東京オリンピックが行われた前年の1963年(昭和38年)に東京都大東区で起こった誘拐殺人事件です。
・加害者…小原保(当時32歳)
・事件の概要…身代金目的の誘拐殺人事件
・身代金額…50万円
・事件の結末…村越吉展ちゃんが白骨死体で発見
この事件の犯人である小原保は被害者である吉展ちゃんの両親から身代金を受け取って逃走しており、事件発生から解決までおよそ2年3ヶ月かかりました。
また、被害者遺族の人権保護の観点から「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は初めて報道協定が結ばれた事件でもあり、マスコミ各社は報道自粛するなどその後の報道に大きく影響与えました。
この事件はテレビやラジオを使い犯人の肉声を流して公開捜査をしており、このメディア捜査が功を奏して犯人逮捕につながりました。
また、吉展ちゃんの殺害のされ方が非常にショッキングだったことからも「戦後最大の誘拐事件」と現在までに語りつがれるようになりました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」詳細① 吉展ちゃんの死因は絞殺による窒息死
小原保、1人で遊んでいた吉展ちゃんを誘拐し絞殺
1963年3月31日の16時30分から17時40分頃までの間に、1人で入谷南公園に遊びに出かけていた当時4歳の吉展ちゃんが行方不明になりました。
それまでの経緯として、吉展ちゃんが公園のトイレで壊れた水鉄砲を直そうとしていたところ、小原保が「直してあげよう」と声をかけました。
小原保は吉展ちゃんを連れて南千住方面へと歩きだしましたが、現在では草野球場に変わっている東京スタジアムあたりまで来て吉展ちゃんが「もう帰ろうよ」と小原保に言ったため、小原保は南千住にある円通寺の墓地に連れて行きそこで吉展ちゃんをベルトで首を絞めて殺害、遺体は墓の屍櫃(からひつ)に隠しました。
小原保の犯行動機は、元々足が悪かった事を吉展ちゃんに指摘されたため、吉展ちゃんを家に返してその特徴を両親に伝えられると足がつき警察に逮捕されてしまうと思ったためでした。
吉展ちゃんが夕方過ぎてもなかなか帰ってこないため、両親は迷子になったと思い警察に通報しました。そのため初期の報道では吉展ちゃんは迷子による行方不明事件として伝えられていました。
小原保、吉展ちゃんを生きているとして身代金を要求
小原保は吉展ちゃんは生きているとして身代金を要求した
事件が発生してから翌日の4月1日に、目撃証言として吉展ちゃんが30代と思われる男性と歩いていたと警察に通報があったことから、捜査本部を設置して誘拐事件の可能性を視野に入れて捜査を始めました。
そしてその翌日に、吉展ちゃんの両親のもとに小原保から身代金50万円を要求する電話があり、両親が警察に相談しその後何度か小原保から電話がかかってきたことで録音することに成功しました。
ただ、この時点で吉展ちゃんはすでに殺害されていましたが、小原保は吉展ちゃんは生きていると両親に伝えており、それを信じた両親は身代金の受け渡しに応じることとなりました。
警察の失態により小原保を取り逃がす
警察のニアミスで小原保を取り逃した
4月6日に母親は小原保が指定した電話ボックスに現金50万円を封筒に入れて置きましたが、その日は小原保は現れませんでした。おそらく警察の張り込みを警戒して様子を見たものと思われます。
そしてその翌日7日に再び小原保から指示があり、吉展ちゃんの自宅から300メートルほど離れた自動車販売店にある軽三輪自動車に50万円を置くように言われたため母親はその通りにしました。
警察が張り込みに着くのが遅れたため、小原保はその間に50万円の入った封筒を奪いを逃走してしまいました。
なお、自動車販売店の方向から歩いてくるスーツ姿の男がおり、捜査員はすれ違った時に一抹の怪しさを感じたものの早く配置につかなければならないと急いでいたため職務質問をしませんでした。後にこの男が小原保であった可能性があると言われています。
警察は小原保が指定した身代金の受け取り場所に事前に母親の豊子さんと打ち合わせをしなかったため、小原保に身代金だけを持ち逃げされてしまうと言う失態を犯してしまいました。
また、警察は犯行現場への到着遅れ以外にも以下のようなミスを犯していました。
・お札のナンバーを控えていなかった。
・身代金要求の犯人の声を40〜55歳くらいだと思い込んでいた(小原保は当時32歳)。
・当時身代金目的の誘拐事件について警察に捜査ノウハウがなかった。
この警察の失態は当然世間からバッシングを浴びることとなってしまいました。
手がかりもなく公開捜査に踏み切る
小原保の電話の肉声が唯一の手掛かりだった
小原保は目的の50万円を入手したことで、その後両親のもとに電話をかけてくることはありませんでした。
そのため警察は公開捜査に切り替え、テレビやラジオなどのメディアを使って録音した小原保の肉声を流し情報提供を呼びかけました。
しかし、多くの情報提供はあったものの小原保の逮捕につながるような有力情報はなく、捜査は完全に行き詰まりを見せていました。
それから無情に時だけが過ぎていきましたが、世間の関心が高かったこの「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、事件から2年後の1965年に歌手グループ「ザ・ピーナッツ」やフランク永井さんなどによる共作で、「かえしておくれ今すぐに」と言う歌がリリースされました。
これはまだ吉展ちゃんが犯人と一緒にいるであろうと言う思いを込めて、心情に訴えて吉展ちゃんを返してほしいと言う思いを込めた歌でした。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」詳細② 事件から約2年後に小原保が逮捕
伝説の刑事・平塚八兵衛の投入
昭和を代表する敏腕刑事・平塚八兵衛を投入
事件から2年以上が経過し完全に操作に行き詰まりを見せていた警察は、捜査班を一新するために特捜班を新たに設置し、昭和時代を代表する敏腕刑事で「警視庁の至宝」とまで言われた平塚八兵衛さんを投入しました。
この平塚八兵衛さんは、「帝銀事件」や「三億円事件」、「山下事件」「BOACスチュワーデス殺人事件」など昭和を揺るがした大事件の数々を担当してきた名刑事でした。
平塚八兵衛さんは捜査線上に浮上していた容疑者のアリバイを徹底的に洗い直しました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の最も有力な手がかりは録音していた小原保の脅迫電話の肉声だけでしたが、文化放送に勤務していた社員がよく似た男がいると警察に情報提供し、平塚八兵衛さんはその男を事情聴取しましたが、これが容疑者の1人として挙がっていた小原保でした。
小原保、事件発生から2年4ヶ月後にようやく逮捕
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」も平塚八兵衛が解決した
事情聴取の結果小原保はついに犯行を自白したため、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」が発生してから2年余りが経過した1965年7月4日に小原保を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕しました。
当時、小原保は時計修理工をしていましたが、多額の借金を抱えており、金策目的での誘拐事件でした。
ただ、小原保は実はこの時点で前橋刑務所に収監されていた服役囚であり、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の後に起こした窃盗の罪により懲役2年の実刑判決を受けていました。
服役囚の規定があるため事情聴取は10日間と限定されており、小原保は何とか逃げ切ろうと犯行を拒否していましたが、平塚八兵衛さんが調べ上げたアリバイの矛盾に小原保は反論できず勾留期間ギリギリでの自白となったようです。
事件解決後に小原保の供述により吉展ちゃんの遺体は発見されましたが、既に白骨化していました。
小原保は吉展ちゃんを連れ回したため、歩き疲れて歩けなくなった吉展ちゃんをうつぶせにし、ベルトで首を絞めて絞殺したと自供しました。そのため死因は窒息死となります。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」犯人・小原保の犯行動機と生い立ちや家族
小原保の犯行動機は多額の借金
小原保は多額の借金に追われて犯行に及んだ
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人である小原保は、事件を起こした1963年当時上野御徒町にて時計店の修理工をしており、多くの借金を抱えて生活に困窮していました。
親族にお金を無心するために故郷である福島県石川町に向かった形跡もあり、お金は借りられなかったため何とかお金を工面しようと焦っていました。
その時たまたま見た黒澤明監督の映画『天国と地獄』から犯行思い立ち、小原保は計画を実行しました。
身代金50万円を奪った後に小原保は借金を返済し、残ったお金は甥っ子にお小遣いとしてあげたと言われています。
小原保はいちど借金がゼロになり生活が楽になったかというとそうではなく、仕事も行き詰まりを見せて依然として生活が苦しかったため、神社の賽銭を盗むなどの窃盗事件を繰り返して逮捕され刑務所に収監されました。
小原保、貧しい家庭の11人兄弟の10番目として生まれる
小原保は小学校時代に足を悪くした
小原保は福島県の貧しい農家の出身で、11人兄弟の10番目の子供でした。
小学5年生の時に骨髄炎を患って片足を悪くした小原保は、座ってでもできる仕事として中学を卒業した後に時計の修理工として仙台の時計店で働き始めました。
その後上京し上野にある時計店で働き始めましたが、月給2万4000円では生活は苦しく時計を横流しして生活を補っていたところ時計店にばれてしまい解雇され無職となりました。
小原保はその後貴金属のブローカーやヒモなどをして生活していましたが、借金がかさんでいき次第に生活が困窮していきました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」誘拐された吉展ちゃんの両親について
吉展ちゃんの母親・豊子さんは記者会見で号泣した
吉展ちゃんの遺体が発見された当日、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の幕引きに母親の豊子さんは記者会見を開いてそ「何でもいいから生きていて欲しかった」と号泣する痛ましい姿を見せました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」では、両親は小原保の指示に応じて身代金の受け渡しを自ら行っており、現代ではなかなか考えられないほど事件解決に向けて危険をかえりみず自ら動いていました。
ただ、たとえ身代金の受け渡しをした時点で吉展ちゃんが殺害されていたとは言え、身代金だけが奪われ事件が暗礁に乗り上げたことについて当時は悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。
その後現在までに、報道協定のこともあり吉展ちゃんの両親がどのように生活してきたかは明らかにされていません。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」犯人・小原保のその後…1971年に死刑執行により死亡
小原保、死刑執行前には短歌を詠んでいた
小原保は獄中で短歌を詠み続けた
刑務所の中で逮捕された小原保は、あまりにも身勝手な犯行で情状酌量の余地はなく1967年に最高裁において死刑判決が下されました。
小原保は獄中から平塚八兵衛さんに何度か手紙を書く中で、次第に更生していき1971年に死刑執行日を迎えると「真人間になったから平塚さんによろしく」と最期の言葉を残したと言われています。
獄中の中で小原保は短歌を詠むようになり、それらの短歌は1980年と1983年に短歌集として出版されました。
小原保がペンネームとしてつけた「福島誠一」と言う名前は、「今度生まれ変わるときは、愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだ」と言う思いが込められているそうです。
小原保が死刑執行を知らされ、その前日に作ったとされる短歌は以下になります。
・明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に開きつつ眠る
・怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる
・静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔
・世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木
こうした短歌をいくら詠んだとしても吉展ちゃんを殺害された両親や遺族の悲しみは言える事は無いですが、小原保が罪と向き合い死刑執行されるその日まで卑しい心を振り払い、”真人間”としてあの世に旅立とうと努力していた事は感じ取れるでしょう。
小原保は死刑を恐れていた
小原保は短歌を詠むことで恐怖を振り払っていた?
伝えられる話では小原保は落ち着いた様子で死刑執行日を迎えたように思われますが、実は死刑執行されることをとても恐れていたと言われています。
「小原は上告が棄却された時は達観した様子でしたが、その頃、周りで死刑の執行が続いたためか、動揺したようです。言葉にはしませんでしたが、『助かりたい』という気持ちがあるように思いました」
ただ、もう判決を変えようがないと話をして別れるほかなかった。その後またしばらくして、小原から「ようやく納得しました」という内容の葉書が届いたという。
小原は死刑確定後、獄中で多くの短歌を詠み、透明な心境で過ごしたように伝えられてきたが、実際はそうではなかったようだ。
死刑執行を恐れるのは何も小原保だけではなく、ほとんどの死刑囚がいつ死刑執行の日が訪れるか分からない中、眠れない日々を過ごしているといわれています。
小原保はそうした恐怖に打ち勝つために短歌を読み続けていたのかもしれません。
わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。
保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。
小原保は人生において道を踏み外し悪の道へ走ってしまいましたが、小原保の母親はこの手記からもまっとうに生きてきた人だとわかります。
子供がどれだけ悪党になろうと母親にとってはかわいい子供であり、それが故に世間を震撼させた罪を犯した小原保の存在を肯定し続けるためには自らも自殺するしかなかったのかもしれません。
小原保の母親は自殺していた
小原保の母親は世間に申し訳が立たず自殺した
小原保が逮捕されたことで福島の実家には多くの報道陣が詰めかけ、小原保の母親はそれら報道陣に対してひたすら頭を下げ続けました。
また母親は、小原が自供する直前「世間をお騒がして本当に申し訳ねえ」と、畳の上に両手をついて記者に語っている。
〈「わしは、決してあの子がやったのではねえと思ってるんス。昔からおとなしい子だったし、そんな大それたことができるような野郎じゃねえスよ。……むしろ親思いの子でして、いつだったかも私に千円も送ってくれたんです。……わしはもう板ばさみになって、心配で心配で……」
母は泣き崩れるばかりだった〉
また、小原保が自供する前に母親は以下のように世間に対して謝っていたようです。小原保が自供して逮捕され死刑判決が下ると、小原保の母親は手記を残して自殺しました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」のその後…現在の捜査に多大な影響を与えていた
吉展ちゃん誘拐殺人事件後の警察の捜査
前述してきたように「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は当時非常にセンセーショナルな事件であり、その後の捜査のあり方や報道のあり方についても大きな影響与えてきました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は警察やマスコミを進歩させた
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の後、警察の捜査において以下のような影響を与えてきました。
・捜査一課の中に「SIT(誘拐捜査専門部隊)」と呼ばれる特殊犯捜査係が設置された。
・身代金目的の誘拐は普通の営利誘拐に比べて厳罰化された。
・捜査において逆探知が認められるようになった。
・被害者の保護の観点でマスコミの報道協定が結ばれることが慣例化された。
当時、捜査において逆探知が認められていなかったことから、小原保が何度も身代金要求の電話をかけてきながらも居場所を特定ができなかったことが事件解決を大きく遅らせることとなりました。
そのため、逆探知が認められるようになったと言う事はその後の事件において捜査スピードを飛躍的に高めることになりました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は結果として警察の捜査力を大幅に上げることにつながり、その後の身代金誘拐事件の犯人逮捕に大きな影響与えた事は言うまでもないでしょう。
狭山事件の強引な捜査の原因に
警察への世間からのプレッシャーが冤罪事件を生んだ
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の後、警察は同じような失態をする事は許されませんでしたが、同年である1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した「狭山事件」においても身代金受け渡し時に犯人を取り逃す失態をしてしまいました。
当然警察は世間からの猛バッシングに遭ってしまい、当時の警察庁長官が辞任する事態に追い込まれ警察は威信をかけて強引な操作に乗り出しました。
警察は確かな証拠もないまま、不確かな犯人目撃情報を手がかりに被差別部落地区の養豚場で働いていた不良の石川一雄さんを別件で逮捕し、暴力的な取り調べの中で「一家の大黒柱であるお前の兄を逮捕するぞ」「10年で出してやるから」と違法取引をし強引に冤罪を着せました。
それから長く服役することになった石川一雄さんは、41年目にして無罪を勝ちとりましたが、この「狭山事件」以外にも警察の違法捜査による冤罪事件は多発することとなり社会問題にまで発展してきました。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」についてまとめると…
・吉展ちゃん誘拐殺人事件は誘拐した直後に吉展ちゃんを絞殺、生きているとして身代金50万円を要求していた
・吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人である小原保は、片足が悪く時計の修理工として働いたが、多額の借金に苦しみ返済目的で事件の犯行を思い立った
・吉展ちゃんの父親については踏めだが、母親は記者会見で「何でもいいから生きていて欲しかった」と号泣した
・吉展ちゃん誘拐殺人事件と同年に発生した「狭山事件」においても警察は同じ失態を犯しており、地に落ちた信用を回復するために強引な捜査をした結果現在までに語り継がれる重大な冤罪事件を引き起こした
ネット文化が発達した現在では、警察と言うのは隅々まで正義が浸透した機関ではなく、事件解決と言う目的のためには違法なことも平気でやってのけると言うことが明らかにされてきました。
もちろん多くの警察官が日々正義感を持って仕事に取り組んでいると思いますが、とあるヤクザが「警察は日本最大の暴力団組織」と揶揄したように、一部では深刻な腐敗が進んでいるようです。