女優の太地喜和子さんと俳優の三國連太郎さんは22歳差で不倫・駆け落ち・同棲をしていた過去があります。
今回は太地喜和子さんと三國連太郎さんの熱愛の馴れ初めや共演の有無、駆け落ち・同棲、破局原因とその後などをまとめました。
この記事の目次
太地喜和子と三國連太郎は熱愛&駆け落ちの過去があった
色っぽい女優の太地喜和子さんと、日本を代表する名俳優だった三國連太郎さん。
実は2人はかつて恋仲になり、駆け落ちをした過去があります。
太地喜和子さんは非常に魅力的で、「男ウケが良い」女優であり、たくさんの芸能人・有名人と熱愛報道が出た女優です。
一方、三國連太郎さんも4度の結婚歴があり、奔放な女性関係で知られた俳優でした。
2人は駆け落ちをするほどの本気の恋をしていましたが、1年ほどで2人の恋に終止符が打たれました。
太地喜和子のプロフィールと経歴
出典:jiji.com
太地喜和子
生年月日:1943年12月2日
没年月日:1992年10月13日
出身:東京都中野区
所属:文学座
活動:女優
太地喜和子さんは1943年に東京都で生まれ、家庭の事情で養父母に育てられました。
高校在学中の1959年、東映ニューフェイスの第6期に合格し、女優としての道を歩き始めます。
高校卒業後、1963年には東映を離れて俳優座養成所に入団し、本格的に女優活動に打ち込むようになり、1967年には文学座に入団、杉村春子の後継者として期待されるほどになります。
代表作はこちらです。
・「藪の中の黒猫」
・「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」
・「火まつり」
<ドラマ>
・「風と雲と虹と」
・「白い巨塔」
1974年に秋野太作さんと結婚していますが、すぐに離婚しています。
また三國連太郎さんのほかにも、中村勘三郎さん、尾上菊五郎さん、志村けんさんとの熱愛報道が出ていて、恋多き女優と言われていました。
1992年に静岡県伊東市で公演後、立ち寄ったスナックのママが運転する車が海に転落し、太地喜和子さんは泥酔していて、さらに泳げなかったために溺死しています。
48歳という若さでした。
三國連太郎のプロフィールと経歴
三國連太郎
生年月日:1923年1月20日
没年月日:2013年4月14日
出身:群馬県太田市
身長:178cm
所属:東映、フリー
血液型:AB型
活動:俳優
三國連太郎さんは日本を代表する往年の名俳優です。
1950年にスカウトされ、松竹大船撮影所の研究生となります。そして、1951年に岡田英次さんの代役として「善魔」でデビューします。
この作品で、第2回ブルーリボン新人賞を受賞しました。
・「戦国無頼」:1952年
・「太平洋の鷲」:1953年
・「宮本武蔵」:1954年
・「警察日記」:1955年
・「ビルマの竪琴 第一部・第二部」:1956年
・「異母兄弟」:1957年
・「鷲と鷹:1957年
・「切腹」:1962年
・「飢餓海峡:1965年
・「にっぽん泥棒物語」1966年
・「神々の深き欲望」:1968年
・「襤褸の旗」:1974年
・「金環蝕」:1975年
・「犬神家の一族」:1976年
・「霧の旗」1977年
・「復讐するは我にあり」:1979年
・「マルサの女2」:1988年
・「釣りバカ日誌」シリーズ:1988年-2009年
・「利休」:1989年
・「息子」:1991年
・「大河の一滴:2001年
1984年には紫綬褒章を受章、1993年には勲四等旭日小綬章を受章しています。
プライベートでは4度結婚を経験し、息子には俳優の佐藤浩市さん、孫には俳優の寛一郎さんがいます。
太地喜和子と三國連太郎の馴れ初めは共演?
太地喜和子さんと三國連太郎さんの馴れ初めは共演と言われています。
2人が出会ったのは太地喜和子さんが19歳、三國連太郎さんが41歳の時でしたから、1962年頃になります。
当時の太地喜和子さんは「志村妙子」という芸名で、東映専属で映画に端役として出演していました。
また、三國連太郎さんも1959年から1965年までは東映の所属でした。
そのため、三國連太郎さんと太地喜和子さん(当時は志村妙子)は、その他東映ニューフェイスと一緒にカレンダー写真に写っているものもありました。
「共演」と言えるほど同じ作品に出演したことは1962年当時はありませんでしたが、同じ東映所属ということで、2人が接する機会は何度もあったと思われます。
ちなみに、馴れ初めとしては2人の共演はありませんが、破局後の1971年の「告白的女優論」という映画で共演しています。
太地喜和子と三國連太郎は駆け落ちして同棲していた
太地喜和子さんと三國連太郎さんは熱愛が発覚し、駆け落ちして同棲しています。
不倫関係の熱愛だった
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2人が出会ったのは1962年のことで、太地喜和子さんは19歳、三國連太郎さんは41歳で、22歳という年の差の熱愛でした。
しかし、この2人の関係はただの「熱愛」ではなく、不倫関係だったんです。
1962年当時、三國連太郎さんは妻帯者でした。1957年に神楽坂の芸者である石原とし子さんと3回目の結婚をしていて、1960年には佐藤浩市さんが生まれています。
三國連太郎さんと石原とし子さんが離婚したのは1972年ですから、太地喜和子さんと三國連太郎さんが恋人同士になった時には、バリバリ妻子がいたことになります。
駆け落ち同然で太地喜和子の実家に
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まだ10代だった太地喜和子さんにのめり込んでいった三國連太郎さんは、妻子を捨てる決心をして、実家暮らしだった太地喜和子さんの実家に押しかけます。
41歳の三國連太郎さんは、19歳の太地喜和子さんのご両親に次のように申し出ました。
「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」
この「せがれ」というのは、佐藤浩市さんのことだと思われます。
佐藤浩市さんは1960年に生まれていますので、この申し出から10年経っても12~13歳。さすがに自立は無理ですよね・・・。
おそらく、三國連太郎さんは嘘をついてまで太地喜和子さんと結婚したかった、一緒にいたかったのでしょう。
そして、この申し出の後、太地喜和子さんと三國連太郎さんは太地さんの実家で同棲を開始しました。
22歳差の恋愛&不倫。駆け落ちのようにして、19歳の女性の実家で同棲を開始する・・・。
昭和だから許されたことなのでしょうか?今の感覚で考えると、いろいろとアウトなことが多すぎますね。
そんな三國連太郎さんは太地喜和子さんのことを本気で好きだったようで、恋敵に嫌がらせをしたこともあったそうです。
太地さんをめぐり確執が噂されたのが故鶴田浩二さん(享年62)だ。映画関係者いわく「共演シーンで鶴田さんの長セリフが終わるところで、三国さんがわざとくしゃみをしてNGにしていた。不仲の原因は不明ですが、一説には太地さんの恋敵が鶴田さんだったという話もある」。
長セリフの最後にわざとくしゃみをするなんて、三國連太郎さんの嫌がらせは小学生レベルですね。
本当に少年のような心を持った純粋な方だったのかもしれません。
太地喜和子と三國連太郎は3ヶ月で破局していた・・・
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太地喜和子さんと三國連太郎さんは、太地喜和子さんの実家に駆け落ちして同棲を始めました。
しかし、同棲開始からたった3ヶ月後に破局してしまうんです。2人が出会ってから、ちょうど1年で2人の恋は終止符が打たれたことになります。
破局した原因は、三國連太郎さんが逃げ出したからです。三國連太郎さんは「疲れた」という書き置きを残して、姿を消してしまったそうです。
太地喜和子さんは三國連太郎さんを追うように、所属していた俳優座を辞めて、三國連太郎さんが「飢餓海峡」の撮影をしていた北海道まで追いかけています。
しかし、数ヶ月で俳優座に戻って、その後は女優業に邁進しました。
19歳の女性の実家に押しかけて駆け落ち&同棲した40代の妻子持ちの中年男性が、わずか3ヶ月で「疲れた」と姿を消すなんて、三國連太郎さんはちょっと、いやかなりひどいですよね。
太地喜和子と三國連太郎の破局原因は10年後の共演で明らかに
太地喜和子さんと三國連太郎さんの破局原因は、破局から10年後に雑誌の共演・対談で明らかになりました。
三國連太郎の告白
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1973年に太地喜和子さんと三國連太郎さんは、「アサヒ芸能」で対談という形で共演しました。
この対談で、太地喜和子さんは「三國さんは、どうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか?」と三國さんに問いかけました。
すると、三國連太郎さんは次のように答えたのです。
10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです
また、三國連太郎さんは太地喜和子さんに女優を辞めるように言っていたけれど、女優を辞めなかったから別れたとも述懐しています。
私は、妻と別れて彼女とともに暮そうと何度か決意したこともありましたが、彼女が劇団をやめていないことが周りからわかった時、やっぱり私の住む世界はここではないと思って、身を引く決意をしました。おつきあいを始めて丸々一年後のことでした。
三國連太郎さんの意見をまとめると・・・
・女優を辞めてくれなかった
この2つの理由で、三國連太郎さんは太地喜和子さんの元から去ったということですね。
太地喜和子の返しがカッコいい
三國連太郎さんが述懐した破局理由を見ると、普通なら「はぁ(怒)?」と思いますよね。
でも、太地喜和子さんは三國連太郎さんが「あなたの体にひれ伏すのが怖かった」と言われた時、次のように返しています。
太地 あたしがあんまりおぼれすぎたのかなァ?あのころ、子ども生んどきゃよかった。アハハ。
引用:三國連太郎の元不貞相手・太地喜和子が誌面で再会/「アサヒ芸能65年」に刻まれた「美女の激言」(終) (2021年10月10日) – エキサイトニュース(3/3)
めちゃくちゃかっこよくないですか?
普通なら、恨み節の1つでも言いたくなるはずなのに、こんな風に粋に返せるなんて、太地喜和子さんが多くの芸能人・有名人と熱愛報道が出て、モテる女優だったことがよくわかります。
太地喜和子も三國連太郎もお互い「最高の相手だった」と後年語っている
太地喜和子さんと三國連太郎さんの恋は1年で終わってしまいましたが、お互いにとって最高の相手であり、最高の恋だったようです。
太地喜和子さんは「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言していました。
また、三國連太郎さんも1981年に週刊読売のインタビューで「今までで、惹かれた女優さんは1人だけです。太地喜和子さんだけです」と話していました。
1年で終わってしまった年の差の熱愛でしたが、2人にとっては忘れられない恋だったんですね。
太地喜和子と三國連太郎の熱愛まとめ
太地喜和子さんと三國連太郎さんの熱愛、馴れ初めと駆け落ち・同棲、破局原因などをまとめました。
この2人の恋は太地喜和子さんが「いい女」であり、三國連太郎さんの印象がガタ落ちするものでした。
ただ、2人ともその恋愛を振り返って、「三國連太郎さんだけ」、「太地喜和子さんだけ」と言えるのはステキな恋愛だった証拠ですね。