「アホの坂田」の愛称で長く愛されたお笑いタレントの坂田利夫さんが亡くなりました。
この記事では坂田利夫さんの「コメディNo.1」時代など若い頃の経歴や画像、結婚せず独身を貫いた理由、生涯で築いた総資産や現在は病気で寝たきりだったとの噂や死因などについてまとめました。
この記事の目次
坂田利夫のプロフィール
坂田利夫のプロフィール
本名 :地神利夫(じがみ・としお)
生年月日:1941年10月7日
没年月日:2023年12月29日(没年82歳)
出身地 :大阪府大阪市港区田中1丁目
身長 :159cm
血液型 :B型
坂田利夫さんは「アホの坂田」の愛称で親しまれた大阪を代表するお笑い芸人の1人で、若い頃は漫才コンビ「コメディNo.1」で活動し、ベテランとなってからはバラエティ番組や俳優としてドラマや映画でも活躍し人気を得ていました。
底抜けに明るくひょうきんなキャラクターでお笑いファンや後輩芸人に愛され続けた坂田利夫さんでしたが、2023年12月29日に82歳で死去し悲しみの声が広がっています。
ここでは、この坂田利夫さんお若い頃のエピソードや結婚せず独身を貫いた理由、晩年の様子などを改めて紹介していきます。
坂田利夫の若い頃① 生い立ち
坂田利夫さんは太平洋戦争開戦直前の1941年10月7日に大阪府大阪市で生まれました。父親は戦争中は単身満州国(戦前日本が建国した傀儡国家)に行っており、終戦後に帰国してワイヤーロープ工場(屋号は地神ワイヤーロープ製造業)を開業しました。
ところが、坂田利夫さんが小学2年生だった1950年9月3日に四国と近畿地方を直撃したジェーン台風により大阪港区一帯は浸水し、坂田利夫さんの実家と工場も流されてしまいます。
坂田利夫さんと家族は無事でしたが、その後は貧しくなりずいぶんと苦労をされたそうです。
坂田利夫さんはその後、此花商業高校(現在の大阪偕星学園高校)を卒業し就職しますが、仕事が長続きせずに町工場や運送会社など10数回も仕事を変えて職場を転々とする生活を約2年間送ります。
「同じやるなら好きでがんばれる仕事を」と考えた坂田利夫さんはお笑いやタレント業を目指すようになりました。
坂田利夫の若い頃② 吉本新喜劇研究生としてお笑いの世界に入る
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お笑いやタレントを目指す事に決めた坂田利夫さんは、新聞広告でテレビタレント協会という求人を見つけて応募。面接を受けて合格し、言われるがままに経費として5000円を支払うも、これは詐欺でそのまま逃げられてしまいます。
そんな時に、喫茶店でぼんやりテレビを見ていると「吉本新喜劇研究生募集」と画面に表示され「吉本に入って大きく金を儲けましょう」と言っているのを見て、坂田利夫さんは「これでようやく親孝行できる」と思いオーディションを受けます。
当時の吉本新喜劇研究生は1500人の応募に対して合格は15人という競争率100倍の超難関で、坂田利夫さんも不合格にされかけますが、審査員の1人だった大物漫才師の花菱アチャコさんが「あの子は何か持っている」と推挙をしてくれてなんとか合格にこぎつけます。
坂田利夫さんの吉本新喜劇への入社は1961年19歳の時で、同期には後にトリオ「レツゴー三匹」で人気となる逢坂じゅんさんがいました。
研究生時代の坂田利夫さんは通行人の役ばかりやらされていたものの、芸能人になった事が嬉しく、台詞は1つもないのに、わざわざ電車の中で周りの人に見えるように台本を読んで見せたりしていたのだとか。
ただ、新人時代は先輩にかなりしごかれたそうで、舞台終わりの深夜2時、3時に先輩のパシリをさせられたり、肩を揉まされたり、靴を磨かされたり、着替えを手伝ったりさせられ、あまりにも辛いため1週間で吉本新喜劇を辞めようとするも、その度に会社から電話がかかってきて「辛抱せえよ」と諭されては戻る事を繰り返していたのだそうです。
また、当時のエピソードとしては、坂田利夫さんが母に作ってもらった弁当を楽屋に置いておくと、綺麗に半分だけなくなって風呂敷で包み直されているという事が何度も続いたため「誰が食べてんのや」とこっそり楽屋に戻ってみると、後輩の西川きよしさんがこっそり食べていたのを発見したという逸話が明かされています。
坂田利夫の若い頃③ 漫才コンビ「コメディNo.1」を結成
坂田利夫さんは西川きよしさんと仲が良く若い頃には、西川きよしさんとその交際相手の杉本ヘレンさん(結婚し現在は西川ヘレンに)の自宅に転がり込んで3人で住んでいた事もあったそうです。
そして1966年、西川きよしさんは横山やすしさんとの漫才コンビで大ブレイク。翌1967年に坂田利夫さんは西川きよしさんに「お前も漫才せえ。よう儲かるで」と勧められます。ちょうどそんな頃に、吉本新喜劇の先輩であった前田五郎さんに「漫才やろか」と誘われ、漫才コンビ「コメディNo.1」を結成。
坂田利夫さんも前田五郎さんも吉本新喜劇出身の漫才師という事で、舞台上で動き回るようなスタイルを確立した事に加え、坂田利夫さんは「お前アホか」とツッコまれた時に普通に「誰がアホやねん」と返さずに素直に「うん、アホや」と返す型破りなスタイルが観客に大ウケし、「コメディNo.1」はすぐに人気漫才コンビになります。
1970年にはラジオ大阪主催の第5回上方漫才大賞(ラジオ大阪主催)の新人賞、1971年には第1回NHK上方漫才コンテストの最優秀話術賞、1972年には読売テレビ主催の第1回上方お笑い大賞の金賞など、当時の若手漫才コンビの中でも際立った活躍を見せています。
この頃に坂田利夫さんの代名詞となる「アホの坂田」のキャラクターも確立。1972年8月には作曲家のキダ・タローさん作曲のオリジナル曲「アホの坂田」のレコードも発売し、瞬く間に6万枚を売り上げるも、大阪教育委員会から「小学校で坂田という名字の子がいじめられてる」とのクレームが入りすぐに発売中止になっています。
その後、坂田利夫さんは「コメディNo.1」で活躍を続け1979年の第14回 上方漫才大賞にて大賞に輝いています。
坂田利夫の若い頃④ 「コメディNo.1」解散後は俳優としても活躍
2009年、相方の前田五郎さんが中田カウス(漫才コンビ「中田カウス・ボタン」のボケで吉本興業の大物)さんに脅迫状が送り付けられた事件の犯人だと疑われた事がきっかけになって吉本興業を退社し、「コメディNo.1」は解散となります。
以降、坂田利夫さんはピンで活動し、お笑いバラエティ番組や俳優としてドラマや映画などに出演し活躍されていました。
坂田利夫さんはお笑いだけでなく俳優としても評価されていました。2015年公開映画「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)では、柄本明さんや津川雅彦さんら名俳優にまじって、癖の強い迷惑老人の茂役を見事に演じ、第10回おおさかシネマフェスティバルの助演男優賞を受賞されています。
坂田利夫さんの俳優としての出演作は「0.5ミリ」の他にも映画では「こんど逢うとき」(1996年)、「平成名探偵 阪田京介」(1997年)、「本日またまた休診なり」(2000年)、「マインド・ゲーム」(2004年)、「新見的おとぎばなし」(2013年)、「嘘八百」(2018年)、ドラマでは「ぼくの夏休み」(2012年)、「浦安鉄筋家族」(2020年)などがあります。
坂田利夫は結婚はせず生涯独身
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坂田利夫さんは82年の生涯で1度も結婚はされておらず独身を貫きました。
坂田利夫さんは生前、結婚したいけどできない芸人としてよくイジられていましたが、これはあくまでバラエティ向けのネタであり、実は本人は確固たる信念から結婚をされなかったようです。
坂田利夫さんは実際にはとても思慮深い方でしたが、若い頃から「アホの坂田」の愛称で親しまれ、笑いを生むためにアホっぽいキャラクターを一貫して貫かれてきました。
そのため、プライベートでも見ず知らずの人から「アホ」などとイジられたり、バカにされたりし、Tシャツへのサインを断ったところ突然殴られて怪我を負った事すらもあったそうです。
坂田利夫さんは自身のそのキャラクターから、もし結婚して子供が生まれたら、その子供が「アホの子」と言われて傷付くかもしれない、いじめられるかもしれないと考えてあえて結婚をしなかったようです。
「結婚したいけど、できない」。芸としていじられても喜んだが、無責任な「結婚」報道には怒った。取材に「年とったら、1人は寂しいで」と答えたこともあった。では、なぜ結婚しないのか-。「母親が『アホ生んだ子や』言われるのは、親やからしゃあない、言うてくれた。せやから、親兄弟を劇場に呼んだことないねん。でも、結婚して子供ができたら『アホの子や』言われるかもしらん」
坂田利夫さんほどの人気芸人であればかなりの資産を持っているはずですし、何よりもとても優しく明るい魅力的な人間性がお笑いファンの間ではよく知られており、とても愛されていました。
こうした事を考えれば、坂田利夫さんは結婚を望めばすぐにでも結婚できたはずですが、坂田利夫さんは自分のために大切な人がアホだと言われる事を恐れ、あえて結婚を遠ざけられていたようです。
実際、道ばたや酒場で、一般客から「アホ」といじられることも多かった。親孝行のため、キャラクターを築き上げて大成し、その結果、あえて自身から「結婚」を遠ざけた。
理想の女性像を聞いてみたことがある。「それにな、ヘレンさんみたいな、ようできた女おらんわ」。
坂田利夫の資産
若い頃は漫才コンビ「コメディNo.1」で一斉を風靡し、歳を重ねてからも愛されるキャラクターで幅広い活躍を見せていた坂田利夫さんが築いた資産にも注目が集まっています。
坂田利夫さんは、近年は「なんばグランド花月」での舞台出演を中心に、各地での営業活動、映画やテレビドラマ、テレビCM、テレビ、ラジオ番組への出演など幅広く活躍されていました。
これらの活躍から、全盛期には年収は数千万円、歳を重ねて出演を減らしてからも年収は少なくみても1000万円以上はあったと推定されます。
現在の総資産は公表はされていませんが、流動的な試算だけでも1億円から5億円は下らないと推定されています。
また、坂田利夫さんは晩年は高齢者施設に入所されていましたが、それまでは大阪府大阪市西区の3LDKのマンションで一人暮らしをされていた事がわかっています。
この自宅マンションが相当な高級マンションだったと噂されており、資産価値は数億円だったとも言われています。
ちなみに、坂田利夫さんは晩年はよく結婚したいけどできないキャラをネタにしており、「結婚してくれたら高級マンションやダイヤの指輪を買うたるぞ」とボケて、よく笑いをとっていました。
坂田は「ものすごいヤキモチ焼いたがな。嫁はん欲しいって思ってるのに。このなかで、坂田と結婚したいなと思っている方、手を挙げてみてください。マンション買うたるぞ。ダイヤの指輪も。(挙がってますよ、という司会者の声に)男やがな!」と、いつものネタも披露。
こうしたネタも資産を持っているというイメージにつながっているようです。
坂田利夫さんはアホキャラクターを売りにしていましたが、実際の性格はかなり真面目なタイプで、酒やギャンブルに溺れたり、借金をして遊んだりといったスキャンダルなネタは1度も出ていません。堅実に暮らされていたと思われ、生涯の活躍を通じて相当な資産を築かれたのではないでしょうか。
坂田利夫の現在…死因は老衰で82歳で死去
すでに触れているように、坂田利夫さんは2023年12月29日に82歳で亡くなっており、現在はこの世にいません。
坂田利夫さんの死因は病気ではなく「老衰」と発表されています。死去された場所は地元の大阪市内とも報じられています。
「アホの坂田」で親しまれたお笑い芸人、坂田利夫さん(本名・地神利夫=じがみ・としお)が29日、老衰のため、大阪市内で亡くなった。
吉本興業が30日、発表した。82歳だった。
坂田利夫さんの死因の「老衰」とは、加齢により脳を含め全臓器、細胞の力がバランスを保ったまま徐々に機能を低下させて命を維持できなくなるレベルにまで下がって死にいたる事とされ、最も苦痛の少ない死因とも言われています。
ちなみに、坂田利夫さんは2022年4月のなんばグランド花月の吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」に出演し、2022年7月30日にも大阪市内の寄席に出演しており、これが最後の活躍となりました。
坂田利夫は病気で寝たきりという噂も出ていたがそうした事実はない
2023年12月29歳に82歳で亡くなり、死因は老衰と発表された坂田利夫さんでしたが、2020年頃から表舞台から姿を消しており、ネット上では「現在は病気で寝たきりになっている」との噂も出ていました。
坂田利夫さんは結婚しておらず独り身で子供もいなかっため、亡くなる数年前から高齢者施設に入所していた事も明かされています。この高齢者施設がどこかは不明ですが、おそらく大阪市内の施設だと思われます。
坂田利夫さんの高齢者施設への入所後、友人であるお笑いタレントの間寛平さんが夫婦で頻繁に訪問されており、現在の坂田利夫さんの様子をTwitter(現在のX)で報告してくれていました。
坂田利夫さんが亡くなる約2ヶ月前の2023年10月21日にも、間寛平さんは坂田利夫さんに会いに行った事を投稿されています。写真の坂田利夫さんは肌艶もよく元気そうに見え、腰掛けて間寛平さんと阪神タイガース優勝の新聞を見て嬉しそうにされています。
今日誕生日を迎えた方おめでとうございます、ハッピーバースデー😃🎊✨。今日は坂田利夫大先生に会いに行ってきました、先生は阪神タイガースが優勝した新聞を見ながら鼻毛を抜いてます、ウヒハ。 pic.twitter.com/g5yejGOYgF
— kanpei (@kanpeitter) October 21, 2023
さらに、それから2週間前には、間寛平さんは坂田利夫さんの誕生日を祝う様子を投稿。坂田利夫さんは誕生日ケーキを前にマグカップで飲み物を飲まれています。
今日誕生日を迎えた方おめでとうございます、ハッピーバースデー🎉✨🎊。坂田利夫大先生は10月7日が誕生日なんですが少し早いお祝いを大先生と嫁と3人でしてきました、今日も先生はご機嫌さんでした、ウヒハ。 pic.twitter.com/MtuUJkj3aV
— kanpei (@kanpeitter) October 3, 2023
間寛平さんの投稿を見る限り、坂田利夫さんは亡くなる直前まで元気に過ごされていたようで、何か病気を患ったり、ましてや寝たきりの状態だったりといった事はなかったと思われます。何よりも、坂田利夫さんは2022年にもなんばグランド花月の舞台や寄席にも出演して元気な姿を見せてくれていたので、病気や寝たきりの噂はデマ情報です。
間寛平さんは坂田利夫さんの最期も看取られたそうです。
最期を看取った際は「本当にきれいな顔をしていた。すごい偉いさん、大富豪みたいな顔。アホの坂田じゃないと思った」と、しみじみ。「そっちの世界でも笑わしてくれると思う。二度と大先生のような芸人は出ない」と言いながら、腕をくねらせて横に動く独特の“坂田歩き”を「後を継ぎたいけど難しい」と苦笑いしながら再現していた。
生涯結婚されず、妻も子供もいなかった坂田利夫さんでしたが、晩年は妹さんやそのお孫さんらが付き添われていたようで、間寛平さんのTwitterへの投稿を見る限り決して寂しい様子ではありませんでした。
まとめ
今回は、吉本興業のベテラン芸人の1人で、「アホの坂田」の愛称で多くのお笑いファンに長きにわたって愛された坂田利夫さんについてまとめてみました。
坂田利夫さんの若い頃は、1941年に大阪府大阪市で生まれ、此花商業高校(現在の大阪偕星学園高校)を卒業後約2年間職を転々とした後、1961年に研究生として吉本新喜劇に入り、1967年に吉本新喜劇の先輩であった前田五郎さんと漫才コンビ「コメディNo.1」を結成してブレイク。数々の漫才コンテストで賞を獲得し人気者になりました。
坂田利夫さんは生涯独身を貫き結婚されませんでした。ベテランになってからは、坂田利夫さんは結婚したいができないキャラクターをネタにされていましたが、実際には自分の意思で結婚を遠ざけられていたそうで、その理由は結婚した妻が「アホ」と呼ばれている自分のせいでバカにされたり、子供が生まれたらその子供がアホの子と言われたりする事を避けたかったためだったそうです。坂田利夫さんの優しく思慮深い性格が窺えます。
坂田利夫さんは生涯にわたって漫才師、お笑いタレントとして人気を維持したため、相当な資産を築かれたと言われています。推定ですが、残された総資産は1億円〜5億円ではないかとも言われています。
坂田利夫さんの現在については、2023年12月29日に82歳で亡くなられており、死因は病気ではなく老衰と発表されています。
坂田利夫さんは2020年頃からほとんど表舞台に出ていなかっため、ネット上では病気で寝たきりになっているとの噂も流れていましたが、そうした事実はなく、晩年は高齢者施設に入り、友人の間寛平さんや妹さんやそのお孫さんが頻繁に訪問して幸せに暮らされていた様子です。