2001年の「三島女子短大生焼殺事件」の犯人の服部純也が注目されています。
この記事では服部純也の起こした三島女子短大生焼殺事件の概要、事件を起こすまでの生い立ちや、親や嫁、子供などの家族、死刑判決時の「マジかよ」発言、死刑執行時の最後の言葉についてまとめました。
この記事の目次
服部純也は三島女子短大生焼殺事件の犯人
服部純也は2002年1月22日に静岡県三島市川原ケ谷発生した逮捕監禁および強姦殺人事件「三島女子短大生焼殺事件」の犯人です。
服部純也はこの事件でのあまりにも極悪非道な行動と、逮捕後の取り調べや裁判などで見せた極めて身勝手で反省の念を微塵も抱いていないかのような言動、三島女子短大生焼殺事件を起こすまでのロクでもない生い立ちなどによって事件から約20年が経過した現在も注目を集め続けています。
今回はこの国内でも稀に見る凶悪犯罪者である服部純也についてまとめていきます。
服部純也の起こした三島女子短大生焼殺事件の概要
最初に、服部純也の起こした「三島女子短大生焼殺事件」の概要から見ていきます。
服部純也は事件の9ヶ月前に別の事件での懲役から仮釈放されたばかりだった
服部純也は三島女子短大生焼殺人を起こした当時、静岡県三島市内の建設会社で土木作業員として働いていました。
当時より7年前の1995年、服部純也は、強盗致傷・恐喝・窃盗の容疑で逮捕されて実刑判決を受け、さらに、それが別の覚醒剤取締法違反と道路交通法違反での執行猶予期間中だった事から、合わせて懲役6年の実刑判決を受けており、2001年4月に仮釈放されたばかりでした。
当時19歳の短大生・山根佐知子さんをナンパして無視されたのに激昂して拉致
被害者の山根佐知子さん
服部純也は2002年1月22日の夜、建設会社の同僚と三島市内の居酒屋で飲食した後、22時40分頃には自動車を運転(飲酒運転)して沼津市内の自宅へと向かいました。
しかしその途中、従業員の集合場所に弁当箱を忘れたことに気がつき、その方向へと再び引き返しています。
そして、23時頃、沼津市内の国道136号線上を南へ向かって車を走らせていた服部純也は、道路沿いを自転車で走行する当時19歳の上智短期大学英語科の1年生・山根佐知子さんを見つけ、ナンパをしようと声をかけました。(山根佐知子さんはアルバイト先の居酒屋からの帰宅途中で夜遊びをしていたわけではなかった)
山根佐知子さんは服部純也から声をかけられたものの、当たり前ですが無視してそのまま自転車を走らせました。
ところが、服部純也はあきらめずに、車で人気のない暗い場所へと先回りして待ち伏せし、狭い路上で自転車で走行してきた山根佐知子さんの前に立ち塞がりました。
服部純也は山根佐知子さんの自転車の前輪にまたがるようにして対峙し、前カゴの部分に両肘をかけるようにして山根さんを逃げられないようにした上で「どこの人?学校行ってるの?名前は?かわいいね、遊びに行こう」などと声をかけました。
山根佐知子さんはそれを無視して何とか逃げようと抵抗しますが、服部純也は山根さんの自転車を押すようにして自分の自動車の方向へと連れていき、そこで、自転車ごと山根佐知子さんを横転させました。
山根佐知子さんは悲鳴をあげて自転車を置いて逃亡しようとしますが、服部純也は「静かにしろ」と怒鳴り、山根さんの口を塞いで頭をヘッドロック状態で締め上げるようにして無理矢理車の中へと押し込むと、車を発進させて人気のない山の方向へと走らせました。
山根佐知子さんを車中で強姦し脅迫
服部純也は、車を走らせながら、突然車に押し込まれてで恐怖に震えていたであろう山根佐知子さんを「俺の顔と車のナンバープレートを見ただろう。警察にチクるなよ。ぶっ殺すぞ」などと脅迫し、静岡県田方郡函南町軽井沢字立洞地内の山中の人気のない場所に車を停車させ、山根さんを再び脅迫した上で強姦。
さらにその後、服部純也は、「俺の顔を見たよな、警察に言ったら強姦されたことを言いふらす」などと山根佐知子さんを脅迫しています。
覚醒剤を打ちたいという衝動で焦り山根佐知子さん殺害を決意
服部純也はそれから、どこか街中の人気のない場所で山根佐知子さんを降ろそうと考え、三島市内まで戻ろうとしますが、その途中で仲間から電話が入り、「覚醒剤を使用するための注射器を持ってきて欲しい」と頼まれます。
服部純也はこの電話で自分も覚醒剤を使用したいという衝動が抑えられなくなり、早く山根佐知子さんを解放して覚醒剤を打ちに行こうという気持ちと、山根佐知子さんを逃せば警察に通報されて再び刑務所に戻る事になるという考えを抱くようになり、山根佐知子さんを殺害して口封じをしようと考えるようになります。
実家にあった灯油のポリタンクを見て山根佐知子さんを焼き殺す事を思いつく
服部純也は、どのように山根佐知子さんを殺害しようかと考えを巡らせながら、覚醒剤を使用するための注射器を取るために静岡県三島市若松町の実家へと戻りました。
そこで服部純也は玄関先に灯油のポリタンクが置かれているのを見つけ、山根佐知子さんに灯油をかけて焼き殺そうと思いつき、覚醒剤の注射器と灯油のポリタンクを車に積み込みました。
山根佐知子さんをガムテープで拘束し生きたまま火をつけ殺害
山根佐知子さんの遺体が発見された現場
服部純也は、日付が変わって1月23日の午前2時頃に、三島市川原ケ谷字山田山地内の三島市道山田31号道路の拡幅工事の現場に車を停車させました。
服部純也は、山根佐知子さんを、声を上げたり逃げ出したりできないように、口をガムテープで塞ぎ、両腕も後ろ手に縛った上で車から降ろし、無理矢理歩かせて、工事現場の未舗装の道路上に無理に座らせると、ポリタンクの灯油を頭から浴びせかけ、「火、つけちゃうぞ」などと言って再び脅しました。
山根佐知子さんは恐怖のあまり、身動きひとつせず、声も出しませんでしたが、服部純也はこの様子を「警察に通報しようと考えているのではないか」と思い込み、また、「早くこの女を殺害して仲間の元へ向かって覚醒剤を打ちたい」という衝動が抑えられなくなり、ライターを使って山根佐知子さんの髪の毛に火をつけました。
服部純也はしばらくその場に留まり、山根佐知子さんの身体に火が燃え広がったのを確認した後に、その場から逃走しています。
事件発覚後の現場検証などから、山根佐知子さんは全身火だるまとなって現場を転げ回り、着火地点から数メートル離れたコンクリートブロックの間でうずくまるような体勢で息絶えた事もわかっています。
山根佐知子さんの遺体は、火をつけられてから約30分後の午前2時35分頃に、現場を通りかかったトラック運転手が人が燃えている事に気がつき110番通報した事で発見されています。
山根佐知子さんの遺体は焼け焦げており、身元不明の状態でしたが、山根佐知子さんの両親がアルバイト先から帰らない山根さんを心配して警察に通報した事から、遺体の指紋と山根さんの私物に残されていた指紋が一致し、身元が特定されました。
服部純也は犯行後に証拠隠滅も企てている
服部純也は山根佐知子さんを殺害後、一旦実家へと戻って灯油のポリタンクを元の場所へと戻し、匂いで仲間に気がつかれないようにと手に付着した灯油を念入りに洗い流しています。
その後、服部純也は覚醒剤を使用するために仲間の元へと向かいますが、その途中で後続車両にクラクションを鳴らされた事に腹を立てて、その運転手を殴打する暴力事件も起こしています。
服部純也はその後覚醒剤を使用した後実家へと戻り、翌日には何食わぬ顔をして出勤し、仕事が終わった後には、山根佐知子さんを拉致した現場に戻って、山根さんの自転車を、沼津市の狩野川河口付近の「港大橋」の上から投げ捨て、山根佐知子さんの所持品をコンビニのゴミ箱に捨てたり、燃やしたりして証拠隠滅を図っています。
服部純也の逮捕は事件から約半年後の2002年8月
服部純也は三島女子短大生焼殺事件を起こしてから2日後の2002年1月25日夜に、車を運転中に当て逃げ事故を起こし、同年2月28日に業務上過失傷害および道路交通法違反容疑で逮捕されており、懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて沼津拘置所に収監されました。
一方、三島女子短大生焼殺事件の捜査は難航していましたが、過去の犯歴などから服部純也が容疑者として浮上し、2002年7月11日に服役中の服部純也にこの事件の容疑者として名前が上がっている事を告げた上で唾液を提出させています。
結果、服部純也の唾液と、三島女子短大生焼殺事件の現場から検出された慰留物のDNAが一致したため、静岡県警察は服部純也を重要参考人として取調べを開始し、同日中に逮捕監禁・強盗などの容疑で逮捕しました。
服部純也は、山根佐知子さんと会って性行為をした事は認めましたが、「合意の上だった」などと言って容疑を否認。殺害についても「一緒にいた外国人がやった」などと言って否認し続けました。
しかし、警察が証拠を積み上げた上でさらに取り調べを続けたところ、服部純也は同年7月30日までに、具体的な殺害方法を含めて犯行を認める供述をするようになり、同年8月13日に、ようやく殺人容疑での逮捕となりました。
以上が、服部純也の起こした「三島女子短大生焼殺事件」の逮捕までの概要です。
服部純也の生い立ち① 両親と4人兄弟の貧困家庭に生まれる
続けて、「三島女子短大生焼殺事件」を起こした服部純也の生い立ちについて、その後の報道やこの事件について触れた書籍などで判明している内容をまとめていきます。
一部週刊誌編集の書籍や、死刑廃止を訴える団体が出版した書籍などによれば、服部純也は1972年2月21日の生まれで、出生地は北海道上川郡上川町。4人兄弟の3番目の次男として出生しています。
服部純也は出生直後に北海道から静岡県三島市へと家族で転居しています。父親は会社員、母親は専業主婦でしたが、家庭は貧困しており、三島市内の借家を転々としながら生活しています。
服部純也の家族についても良い話はなく、借家の大家からの証言によれば、服部家の去った後の家は荒れ放題で、まるでゴミ屋敷のような有様だったようです。こうした事から服部純也の家族は何度か借家の大家から立ち退きを求められた事もあったようです。
また、当時の近隣住人の話によれば、服部純也の家族が越してきた地域では窃盗被害が続出するようになり、一部の住人が少年時代の服部純也が近くの池に何かを捨てている姿を目撃しています。
こうした事から、服部純也の子供時代には、服部家は一家で窃盗をして生活していたのではないかと疑う声も上がっていたようです。
服部純也の生い立ち② 窃盗などで少年院の入退院を繰り返す
三島女子短大生焼殺事件での裁判記録などによると、服部純也は三島市内の中学校へと進学していますが、3年生の時に窃盗事件を起こして補導され、初頭少年院に送致されており、少年院内で卒業式を迎えています。
中学卒業後、服部純也は高校へは進学せずに鉄筋工などとして働いていますが、17歳の時に再び窃盗事件を起こして逮捕され、中等少年院への送致処分を受けています。
中等少年院を仮退院した後、服部純也は、当時姉が住んでいた沖縄へと移住し、工員として約1年ほど働いています。しかしその後再び三島市へと戻って、スナック従業員や土木作業員として働いているときに再び窃盗事件を起こして保護観察処分を受けています。
服部純也の生い立ち③ 結婚するも覚醒剤や強盗致傷などで何度も逮捕
1992年8月、20歳になった服部純也は、中学時代の同級生だった女性と2人の子供を作って結婚していますが、結婚から4ヶ月後の1992年12月には、覚醒剤取締法違反と道路交通法違反で逮捕され、懲役1年6ヶ月執行猶予4年の有罪判決を受けます。
さらに、上述の事件の執行猶予期間中であった1995年4月8日、当時23歳だった服部純也は、当時21歳の男と共謀して静岡県駿東郡長泉町下土狩の路上で、当時22歳の地方公務員男性を襲って全治2週間の怪我を負わせ金品を奪う強盗致傷事件を起こし逮捕されています。
この事件により、服部純也は執行猶予期間中の事件の判決も合わせて懲役6年の実刑判決を下され服役しています。この服役中の1999年1月に嫁と離婚しています。
2001年4月に仮釈放された後、服部純也は配送会社などで働き、同年7月頃には離婚した元嫁とヨリを戻して、元嫁と子供が暮らしていた沼津市大塚の県営団地に転がり込んでいます。
2001年10月頃からは、三島市内の建設会社で土木作業員として働き始め、その3ヶ月後の2002年1月に「三島女子短大生焼殺事件」を起こしています。
服部純也の家族① 暴力的な父親とパチンコ狂いの母親
続けて、服部純也の家族についても現在までにわかっている内容を見ていきます。
服部純也が貧困する家族で育ったことは生い立ちのところで既に触れていますが、当時の近隣住人の証言によれば、父親は周辺の住人にはほとんど知られていないほど姿を見せない人物で、母親はパチンコ好きで有名な人物だったようです。
また、裁判記録や週刊誌報道によると、服部純也の父親は子供に鉄拳制裁を喰らわせるような暴力的な人物だったようです。ただ、父親の鉄拳制裁は服部純也が母親の財布から金を盗むなどした時に行われていた事だったようです。
また、パチンコ狂いで知られた母親は、パチンコで負けると機嫌が悪くなって子供らに当たり散らすような人格破綻者で、家族が生活する住居はゴミ屋敷のような有様で、周辺の人物からは、関わり合いになりたくない家族だと認識されていたようです。
服部純也の家族② 兄弟が3人
生い立ちのところでも触れましたが、服部純也は両親と4人兄弟の家族で育っています。
服部純也は兄弟の3番目で次男という事から、兄弟については兄が1人と姉が1人いる事がわかります。
ただ、下の兄弟が弟か妹かまでは不明です。
服部純也の兄弟については詳しい情報は明かされていませんが、姉が服部純也が10代の頃に沖縄に住んでいた事と、裁判記録などから他の兄弟には犯罪歴はない事などがわかっています。
服部純也の家族③ 離婚した元嫁との間の子供が2人
こちらも生い立ちのところで既に触れていますが、服部純也には20歳の時に結婚した中学時代の同級生だった嫁と、その嫁ととの間にできた2人の子供がいます。
服部純也は覚醒剤で逮捕されたときにこの嫁と離婚していますが、出所後には復縁して一緒に暮らしていたようです。
ただ、その後、ナンパ目的で山根佐知子さんに声をかけ、さらに強姦した上で残虐な方法で殺害するという「三島女子大生焼殺事件」を起こしているので、この事件後はさすがにこの嫁や子供らは縁を切っているのではないかと推測されます。
服部純也の兄弟、子供や元嫁などの家族らの現在については情報がなく不明です。
服部純也は死刑判決時に舌打ちして「マジかよ」と発言
服部純也は「三島女子大生焼殺事件」の裁判で、2004年1月の第一審の判決公判で無期懲役の判決を受けています。
死刑を求刑した検察側が控訴するのは当然として、服部純也側もこの判決を不服として少しでも量刑が軽くなればとの思惑から控訴しています。
しかしその結果、2005年の控訴審判決で一審の無期懲役判決が破棄され、改めて死刑判決が下されました。
この判決が言い渡された時、服部純也は舌打ちして「マジかよ」と発言しています。これはこの裁判を傍聴した方が証言しているので事実でしょう。
服部純也はこの判決を不服として上告しますが、この「マジかよ」という発言が裁判官の心証を害した部分もあったのか、最高裁でも死刑判決が下され確定しています。
服部純也は既に死刑執行で死亡
死刑判決が確定した服部純也ですが、三島女子短大生焼殺事件から10年後の2012年8月3日に東京拘置所内で死刑執行されています。
享年は40歳でした。
服部純也の最後の言葉や死刑執行時の様子
服部純也の三島女子短大焼殺事件でのあまりにも極悪非道な犯行内容と、裁判で見せた反省の念を微塵にも抱いていないような態度、事件を起こすまでの、人に迷惑をかけるために生まれたかのようなロクでもない生い立ちは現在も人々の怒りを呼んでおり、その死刑執行時の最後の言葉や様子が知りたいという声も多いです。
しかし、服部純也が死刑執行されるときに、どのような様子でいたのかの情報は流出しておらず、最後の言葉も不明です。
なお、死刑判決後の拘置所内での服部純也の様子については、当時死刑囚として収監されていた服部純也本人が「死刑囚仲間で作る「ユニテ」という会が発行している機関誌「希望」の第65号に、「かなり参っています」というタイトルの文章を寄稿して、その当時の心境を書いているので紹介します。
服部純也はこの「希望」に寄せた文章で、拘置所内での生活でストレスが溜まっている事や再審請求が思うように進まない事を被害者気取りで憤ったり、死刑判決と無期懲役判決の境界線がよくわからない、検察側もデタラメなら裁判官も似たようなものなどと不満を述べたりと、自分のした事を棚に上げて不平不満をひたすらに書き綴っていました。
この文章の内容から、服部純也は死刑執行を待つ拘置所内でも全く自分の犯した罪と向き合う事なく、まるで自分が被害者であるかのような気持ちでいた事がわかります。
服部純也は死刑執行の前まで、なんとか自身の死刑を回避しようと再審請求を行おうと動いていたようです。2011年に参議院議員の福島瑞穂さんが死刑確定者らを対象に実施したアンケートに服部純也は「死刑執行だけはされたくない」、「死刑執行方法(絞首刑)もかなり残酷だ。」などと書いていました。
こうした回答からは、服部純也が自分が極めて残虐な方法で人を殺害した事を反省するどころか、自分が大罪を犯した事を認識すらしていなかなったのではないかという印象を受けます。
まとめ
今回は2001年1月に発生した「三島女子短大生焼殺事件」の犯人・服部純也についてまとめてみました。
服部純也は、当時19歳だった女子短大生の山根佐知子さんにナンパを無視された事に一方的に腹を立て、車に無理矢理連れ込んで拉致監禁して強姦した上、灯油をかけて生きたまま焼殺するという極悪非道極まりない犯行に及びました。
服部純也の生い立ちは、暴力的な父親とパチンコ狂いの母親と、自分を含めて4人兄弟の貧困家族で育ち、子供時代から窃盗を繰り返して複数回の少年院送致処分を受けています。
20歳の時には中学時代の同級生だった嫁と結婚し2人の子供も生まれましたが、成人した後も強盗致傷事件や覚醒剤取締法違反などで何度も逮捕され離婚。
出所後に元嫁と復縁して嫁と子供の住む団地に転がり込むなどした挙句、三島女子短大生焼殺事件を起こして逮捕されました。
裁判では死刑判決を受けた時には、舌打ちをして「マジかよ」と言い放ち、死刑囚として服役中も死刑執行をなんとか回避しようと再審請求手続きを行おうとしていました。
服部純也の最後の言葉は明かされていませんが、この性根の腐った人間性から見て、最後の瞬間は見苦しいものだったと想像されます。