創価学会会長として有名な池田大作さんですが、ネット上でも様々な噂が流れている話題の人物です。
この記事では、池田大作さんの生い立ち、嫁や息子など家族情報、資産、そして死亡説の詳細や現在について画像付きでまとめてみました。
この記事の目次
【創価学会】池田大作のプロフィール
名前:池田大作(いけだ だいさく)
生年月日:1928年1月2日
出身地:東京都大田区
最終学歴:富士短期大学卒業
池田大作、本家は裕福な海苔養殖業者だった
池田大作さんの生い立ちに関しては、大元の池田本家は、東京・大森で海苔の養殖業を営む名家でした。
江戸時代より海苔養殖業に携わっていたという池田本家は、池田さんの祖父にあたる五右衛門さんの代になると、100人の漁師を雇うほど羽振りが良かったそうですね。
その池田本家の3男として生まれたのが、池田さんの父となる子之吉さんでした。
子之吉さんは、池田本家同様に海苔養殖業者の道へと進み、1915年になると、東京・矢口の農家の娘・小宮一さんと結婚しています。
本来ならば孫の代まで安泰な立場だった池田本家でしたが、1923年に起こった関東大震災により被災して、漁場や持ち舟が壊滅的な打撃を受けることになりました。
関東大震災により資産の大部分を失うことになった池田本家ですが、この時は東京・大森の土地を売り払い、(当時大森より地価が安かった)東京・糀谷に3000坪の自宅兼作業所を購入することで零落を防いでいます。
糀谷時代の池田本家は、1日4000枚の海苔を生産していた時期もあるなど、震災の打撃から立ち直っていた時期もあったようですね。
池田大作、リウマチに倒れた父の代わり家計を支える
1928年1月2日に、池田子之吉さん・一さん夫妻の5男として生まれた池田大作さんですが、子之吉さんがリウマチに倒れて働けなくなるというアクシデントが一家を襲うことになります。
こんな時に頼りになるはずの池田本家に関しては、前述の通り関東大震災で資産の大部分を失っていたうえ、最終的には東京・糀谷の自宅兼作業場を売却して廃業をする運命が待っていたため、援助を受けることは難しかったようですね。
子之吉さんがリウマチに倒れて以降は、一さんや兄たちが働きに出て池田家の家計を支えることになり、池田さん本人も尋常小学校卒業した1940年になると、東京・蒲田にあった「新潟鐵工所」に就職しています。
1941年に太平洋戦争が始まった後は兄たちが徴兵された影響もあり、池田さんは、現在ならば中学生に該当する年齢で一家の家計を支える羽目になりました。
とはいえ、勉学に並みならぬ関心があった池田さんは、貧しさに負けることもなく、働きながら東洋商業高校に進学し、苦学生として戦時中を過ごしております。
この時代の池田家は泣き面に蜂状態が続き、1945年5月になると、空襲により実家が焼きだされてしまい、残った家財はかろうじて持ち出せた長持の中にあった「雛飾りとコウモリ傘」だけなんてどん底まで味わったこともありました。
昭和20年(1945年)5月の空襲は、一家を直撃。弟と二人で必死に長持を一つ持ち出した。一家の唯一の財産となった長持を開けると、雛飾りとコウモリ傘が一本入っていただけだった。家族が落胆するなかで母は言った「このお雛様が飾れるような家にきっとまた住めるようになるよ」
引用:父、母、兄弟
池田大作と創価学会との出会い…小学校時代の知人に誘われ入信
池田大作、1947年に創価学会に入信
池田大作さんと創価学会の出会いに関しては、1947年8月となります。
知人に誘われて創価学会の集会に参加することになった池田さんは、当時理事長をしていた戸田城聖さんの説法に心惹かれるものがあり、創価学会への入会を決意します。
昭和22年(1947年)8月14日。池田大作青年は、小学校時代からの知人に誘われた。「“生命哲学”の会があるから参加しないか?」
戦後、価値観の大きな変化に戸惑いながら、確固たる生き方を模索していた青年は、“生命哲学”と聞いて、その集まりに興味を持った。引用:恩師との出会い
現在では日本最大の新興宗教であり、国内800万世帯以上の会員数を誇る創価学会も、当時は弱小の新興宗教の1つでしかなく、会員数も3000世帯に満たないレベルでした。
池田大作、当時理事長だった戸田城聖の弟子になる
創価学会入会後の池田大作さんですが、1949年になると、戸田城聖さんが経営する出版社「日本正学館」に入社し、身も心も創価学会に捧げる決意を固めています。
入社後の池田さんは、少年雑誌の編集者となりますが、すぐに日本正学館が経営危機に陥り、社員時代は1年にも満たない期間で終わることになりました。
大手出版社による雑誌の復刊が相次ぐなかで、小さな出版社は苦戦。戸田会長は、出版事業を断念する。
引用:苦闘の日々
その後は、戸田さんが新たに設立した「東京建設信用組合」へ入社している池田さんですが、こちらの事業も開始2年足らずで廃業に追い込まれております。
信用組合の経営に乗り出し、事業の立て直しをはかった戸田会長だったが、戦後の経済混乱のあおりを受け営業停止に追い込まれる。多くの社員が去っていった。
引用:苦闘の日々
当然ながら給料も満足に支払ってもらえない日々が続いた池田さんは、たくあんをかじりながら飢えをしのぐ日々が続いたそうですね。
本来ならば、他の社員同様に戸田さんの元を去ってもおかしくはない状況だった池田さんでしたが、戸田さんの人間的な魅力に惚れ込んでいたため、苦労を共にする道を選ぶことになりました。
ある夜の、仕事の帰途。師と弟子は二人して川べりを歩いていた。池田青年は、当時の流行歌をもじって、ふと“こんな男に誰がした”と口ずさんだ。すると、戸田会長が振り返り「おれだよ」と言って破顔一笑した。「生きるか死ぬかのような苦闘の時である。私は『おれだよ』の一言に熱いものを感じた。どんな自分になろうと、私はついていこう」(『私の履歴書』)
引用:苦闘の日々
池田大作、出世の秘訣は布教活動での実績だった
池田大作さんが、創価学会内で頭角を現し始めたのは、戸田城聖さんが2代目会長に就任した1951年頃からでした。
1952年1月に、蒲田支部の支部幹事に抜擢された池田さんは、わずか1ケ月足らずで201世帯の新規信者獲得に成功しております。
戸田さんが会長に就任した当時の創価学会の会員数がわずか3000世帯だったことを踏まえると、驚異的な布教ペースだったことが伺えます。
1956年になると、関西方面の全面指揮を任されることとなった池田さんは、半年足らずで1万1111世帯の新規信者獲得に成功しており、創価学会が躍進する原動力となりました。
昭和31年(1956年)の年頭から、関西方面の責任者として指揮をとり、5月には大阪支部が1万1111世帯というかつてない弘教を成し遂げた。戸田会長の期待に存分に応える、池田青年の奮闘は学会全体の弘教の機運を大いに高めた。
引用:弟子としての奮闘
池田大作、1960年に創価学会3代目会長に就任
1957年には、会員数75万世帯にまで拡大するなど躍進が続いた創価学会ですが、1958年になると、2代目会長である戸田城聖さんが58歳の若さで病死するという悲劇が起こりました。
戸田さんの死後の会長の座はすぐには決まらなかったものの、内部でも池田さんを後任に推す声が高まり、1960年に創価学会の3代目会長に就任することになりました。
3代目会長となった池田さんは、海外への布教活動はもちろんのこと、1964年に公明党を結成するなど、現在の創価学会の基盤を築くことになった改革を次々に実行しております。
教育にも関心が深かった池田さんは、1968年より創価学会傘下の学校法人を次々に設立しており、現在までに下記の教育機関が現在しています。
・札幌創価幼稚園
・東京創価小学校
・関西創価小学校
・創価中学校・高等学校
・関西創価中学校・高等学校
・創価女子短期大学
・創価大学
池田大作の家族情報…息子・城久は29歳で病死していた
池田大作、結婚した嫁・香峯子は知人の妹だった
池田大作さんと4歳年下の妻・香峯子さんの出会いに関しては、1951年初夏だったそうですね。
創価学会関連の会合の帰りに、知人の白木さんという男性とばったり出くわした池田さんは、白木さんの側にいた香峯子さんを妹として紹介されることになりました。
その後2人は急速に仲を深めていったようで、1952年5月には戸田城聖さんを招待した結婚式を挙げています。
池田さんが創価学会の3代目会長に就任して以降の香峯子さんは、多忙な夫の体調を気遣い、池田さんの国内外での布教や会談業務に同行することとなり、「微笑みの外交官」との異名を持つほどの存在感を発揮しております。
池田さんは、創価学会を二人三脚で巨大組織に発展させたパートナーでもある香峯子さんに対して、下記のように語っています。
池田先生は語る。「妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護師であり、秘書であり、母のようでもあり、娘か妹でもあり、何より第一の戦友です」
引用:共に闘う同志
池田大作の息子① 長男・博正は創価学会の最高幹部
池田大作さん・香峯子さん夫妻には、これまでに3人の息子が生まれています。
池田さん夫妻の長男・博正さんは、中学から大学まで慶応義塾大学系列の学園に通ったエリートでした。
大学を卒業後は、関西創価学園の教師を務めていた博正さんですが、10年ほど勤務した後に退職し創価学会本部へ移動することになりました。
現在の博正さんは、創価学会主任副会長と創価学会インタナショナル副会長を兼務しております。
基本的にプライベートは公表されていない博正さんですが、関西創価学園時代の教え子と結婚したものの、2000年代後半に離婚したとの噂もあります。
池田大作の息子② 次男・城久は胃穿孔が原因で29歳で死亡
池田大作さん夫妻の次男・池田城久さんに関しては、1984年に29歳の若さで病死しています。
城久さんの死因については、胃穿孔であり、本来は死に至ることが稀な病気でしたが、治療が遅れたことが命を落とす原因となりました。
胃壁に穴があき,完全に腹腔につき抜ける状態。穴があいても膵臓(すいぞう)などの隣接臓器によって覆われる場合は被覆性穿孔といって区別する。穿孔は胃・十二指腸潰瘍(かいよう)の合併症として起こることが最も多い。その他,胃癌や,誤飲した異物または外傷によって起こることもある。
引用:胃穿孔
兄弟の中で唯一創価大学を卒業していた城久さんは、生前は創価大学の職員をしており、1979年6月頃に同大の女子学生だった熊沢さんという女性と結婚したとの噂があります。
池田さんは、息子たちの中でも特に城久さんを可愛がっており、城久さんのことを後継者と見る創価学会関係者たちも多かったようですね。
池田大作の息子③ 三男・尊弘は創価学園の副理事長
池田大作さんの3男の尊弘さんに関しては、小学校から大学までを慶應義塾大学系列の学園で過ごしたエリートとなります。
大学を卒業後は、関西創価小学校や創価学園に勤務していたという尊弘さんでしたが、現在は創価学園の副理事長や創価学会の副会長などを兼務しているようですね。
池田大作、孫を自称する人物がYouTubeに出没していた
池田大作さんの孫に関しては、次男・城久さんの息子(長男)であるAさんが創価学会の後継者候補ではないかとの噂があります。
Aさんは、城久さんの結婚後7ケ月程度で生まれてきたという話なので、1980年生まれ説が有力視されており、創価大学OBだと言われています。
Aさんの後継者説の根拠については、池田さんがAさんのことを溺愛していたことから、跡目を任せるのではないかという憶測が創価学会内部で発生しているようですね。
池田さんには、2018年11月になると、孫を自称するYouTuberまで出現しておりますが、こちらの人物に関しては、ネット上では成りすまし扱いされています。
池田大作にまつわる噂…総資産が3兆円で国家予算予算規模の噂も
池田大作の噂① 在日朝鮮人説
日本最大の新興宗教団体のトップである池田大作さんだけに、ネット上では様々な噂が流れています。
池田さんにまつわる噂の中で最も有名なネタの1つに在日朝鮮人説があり、本名は成太作(ソン・テチャク)だという具体的な情報まであります。
とはいえ、前述の通り、池田さんの父方の実家は江戸時代から続いた海苔養殖業者の池田家であり、母方の実家も農家の小宮家となっているため、在日朝鮮人説は完全なデマであることが分かります。
池田さんに対して在日朝鮮人説を流した人物ははっきりしており、「永田町の陰陽師」との異名を持つ風水師の富士谷紹憲さんが、「國民新聞」という雑誌に寄稿した記事がデマの発生源となっております。
富士谷さんは、政治家の選挙・政治活動の指南役としても有名な存在であり、皇室を敬愛する保守系の論客としても知られている人物でした。
一方で、創設者である牧口常三郎さんが戦前に反戦運動を展開した末に逮捕されて獄中死した歴史を持つ創価学会は、伝統的にリベラル色が強く、日頃から富士谷さんら保守系の論客により敵視されていたようですね。
保守系論壇にとって、それだけ創価学会のリベラル思想が驚異的だったという証でもある「池田大作在日朝鮮人説」ですが、現在だとヘイトスピーチそのものな際どい話題と言えます。
池田大作の噂② 資産が小国の国家予算規模
池田大作さんには、資産が小国の国家予算規模だという噂まであります。
池田さんの総資産額の噂に関しては、ネット上ではどんどん尾ひれがついているようで、現在では1兆円説から3兆円説まで存在しており、スイス銀行の秘密口座に隠してあることになっています。
こちらの噂については、創価学会の財務納金(信者からの寄付金)額が年間1000~2000億円あるとの情報が発生源のようですね。
ただし、創価学会側は財務納金関連の詳細データを公表したことがないため、創価学会の財務納金額に対する噂自体が、ネットの都市伝説の範疇と言えます。
実際の池田さんの年収額については、高額納税者公示制度があった時代は普通に公開されていたようで、2002年のデータでは納税額1億2774万円(年収3億5000万円前後)だったことが確認されております。
確かに億万長者ではあると言えるデータも残っている池田さんですが、その資産額については、現実的には数十億円程度なのではないかと思われます。
池田大作の噂③ 自宅は創価学会第二別館を利用している?
池田大作さんについては、自宅に関する噂も諸説ある状態になっております。
ネット上では、案の定「フランスに城を持っている」だの「全国各地に隠れ豪邸」を持っているとの噂が流れている池田さんですが、実際の自宅は東京・信濃町にある門構えが立派な邸宅となります。
ただし、信濃町の自宅にはもっぱら妻である香峯子さんが1人住んでいると言われており、池田さん本人は同じ信濃町にある創価学会第二別館を自宅代わりに利用しているとの噂があります。
池田大作の名言…創価学会を巨大組織へと変貌させた言葉の力
一代で創価学会を巨大組織へと変貌させた池田大作さんだけに、その論舌は冴え渡り、人生に対する蘊蓄ある言葉を多く残している人物でもあります。
この項では、筆者の心に残った池田さんの名言を紹介したいと思います。
自分だけの幸福もなければ、
— UragamiTakanori (@Ura0705Takanori) 2016年9月11日
他人だけの不幸もない。
人を幸せにした分、
自分も幸福になる。
〜池田大作名言100選〜
9月12日
逆境こそが、人間を鍛え、大いなる使命に目覚めさせる。厳しい冬を越えてこそ、希望の春を迎えることができる。by 池田大作
— 人物名言集 (@jinbutu) 2019年2月18日
一切は自分の物のとらえ方で決まるのです。老いを人生の下り坂と捉えるのか上り坂で完成だとみるかで、豊かさは天と地の違いが出てくるのです。池田大作・名言100選より
— みどり (@kaede_midori) 2015年8月30日
戦中・戦後の混乱期を生き抜いた人物だけあり、池田さんの人生観には、独特の深みがあると言えますね。
池田大作の現在…2010年から表舞台から消え死亡説も浮上していた
池田大作の現在に関しては、ネット上では死亡説が流れ続けております。
池田さんに死亡説が流れ続けている理由については、2010年6月頃から、公の場に姿を見せなくなったことが原因のようですね。
そのため、池田さんの安否に関する噂はネット上でも大きな注目を集めており、「病死した後にミイラにされて学会本部に安置されている」とのオカルトめいた都市伝説まで生まれる始末となっています。
実際の池田さんの安否情報は、「週刊文春」などの誌面を飾ったこともあります。
2011年の「週刊文春」のスクープ記事では、池田さんは脳梗塞に倒れており、持病の糖尿病の悪化もあいまって自力歩行が困難な状態に陥ってしまい、車いすでの移動を余儀なくされている状況との内情が掲載されていました。
脳梗塞の後遺症で認知症も発症してしまったという池田さんは、咀嚼も困難状況であると言われており、近年は栄養剤を経管注入することで命を長らえている状況だとか。
ちなみに、池田さんの入院先は、東京・信濃町にある「南元センター」という創価学会関連の医療施設だと言われております。
【創価学会】池田大作について総まとめすると…
・池田大作は1952年に知人の妹だった香峯子さんと結婚した
・池田大作に子供は息子が3人おり、次男は29歳の若さで病死している
・池田大作の総資産は不明だが、2002年のデータでは納税額1億2774万円(年収3億5000万円前後)である
・池田大作の自宅は創価学会第二別館を自宅代わりに利用していると噂されている
・池田大作は2010年から表舞台から姿を消し死亡説も浮上、実際は脳梗塞の後遺症で認知症となり車いす生活をしている
戦中戦後を生きた人物ならば、誰でも多かれ少なかれ波乱万丈な人生を送って来たものでしょうが、池田大作さんの人生もかなりドラマティックなものであったことが伺えます。
戦後日本の巨人の1人である池田さんに敬意を表しつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。