人気お笑い芸人の出川哲朗さんですが、実家は知る人ぞ知る老舗企業だったりします。さらには、母方の親戚には政治家や大物財界人までいる名家の血筋だとか。
この記事では、出川さんの華麗なる血筋や家族に関する情報をまとめてみました。
出川哲朗のプロフィール
名前:出川哲朗(でがわ てつろう)
本名:出川哲朗(でがわ てつろう)
出身地:神奈川県横浜市神奈川区
生年月日:1964年2月13日
学歴:横浜放送映画専門学院卒業
身長:160cm
デビュー時期:1985年
所属事務所:マセキ芸能社
リアクション芸人という、使い捨てになりがちなポジションながらも、息の長い活躍が続いている出川哲朗さんですが、元々は役者として芸能界に入って来た人物です。
役者時代の出川さんは、映画「男はつらいよ」シリーズに、端役とはいえ5作品連続で出演していたりと、そのまま役者を続けていても、いずれは個性派俳優としてブレイクしていたかもしれない経歴があったりもします。
お笑い芸人転身後の出川さんは、専門学校時代の友人であるウッチャンナンチャンの2人の助力などもあり、1990年代中盤頃には売れっ子タレントとなっております。
しかしながら、ブレイク後は「抱かれたくない男ランキング1位」の常連となったりと、汚れ芸人の筆頭格として芸能界を渡り歩くこととなった出川さん。
そんな出川さんのイメージが反転したのは、人気バラエティ番組「世界の果てまでイッテQ!」の「出川哲朗のはじめてのおつかい」企画がきっかけでした。
「出川イングリッシュ」と名付けられたデタラメな英語を駆使して、英語圏の国で1人でおつかいをする出川さんの姿が視聴者に大ウケし、「出川哲朗のはじめてのおつかい」は、番組を代表する人気企画へと成長することになりました。
「世界の果てまでイッテQ!」が、日本で最もティーンエージャーに人気が高い番組なこともあり、若者層の間での出川さんのイメージは、それまでの世代とは一変しました。
現在では、「小学生の尊敬する芸能人」の上位に選ばれることすらあるほどの人気者に成り上がった出川さんは、30年を超える芸能界生活の中での絶頂期にいると言えるのかもしれませんね。
出川哲朗の実家は老舗海苔問屋「蔦金商店」だった!
老舗海苔問屋「蔦金商店」
実家である蔦金商店の商品のイメージキャラクターも務めている出川哲朗さん。
出川哲朗さんの実家は、横浜市で120年以上続く海苔問屋「蔦金商店」です。出川さんの実家に関しては、昔から神奈川県北東部に住む有力一族だったようで、江戸時代には地元の新田開発にも携わったという歴史まであるとか。
そんな名家と言える出川家の現在まで続く生業である蔦金商店を起こしたのは、出川さんの曽祖父にあたる出川金蔵さんでした。
金蔵さんが、明治27年(1894年)に創業した蔦金商店は、日本の近代史の中を生き抜いてきた企業でもあります。
大正12年(1923年)に起こった関東大震災では、横浜市は、辺り一面瓦礫と被災者の遺体の山と評されるほどの甚大な被害を受けました。そのため、蔦金商店も被災したことは確実に思えますが、この時の被害は「蔦金商店存続の危機」として語り継がれるほどのものではなかったようで、どのような被害を受けたのかは不明となっております。
蔦金商店最初の危機!横浜大空襲で消失した?
1945年5月29日に、アメリカ軍により実行された横浜大空襲は、横浜市一帯を火の海に変えました。
日中に焼夷弾を大量投下されたということもあり、横浜大空襲においては、横浜市のみので1万人前後の方が命を落としたと言われております。
蔦金商店にとって最初の存続の危機は、昭和20年(1945年)にやって来ました。この年の5月にアメリカ軍により実行された横浜大空襲により、蔦金商店も焼け落ちてしまいました。
当時の蔦金商店は、既に2代目当主の出川政雄さん(出川哲郎さんの祖父)の代になっておりましたが、政雄さん一家に関しては、かろうじて空襲の被害から逃れられていたようです。
しかしながら、街も店も焼け落ちて、辺りは空襲による犠牲者の遺体の山などという、まさにこの世の地獄のような光景の中で、政雄さんも途方に暮れていた時期もあったとか。
この時、政雄さんが店の再建を諦めていれば、蔦金商店の歴史は創業50年ほどで終わっていたことになりますが、戦後日本を復興させた戦前世代の底力はさすがなものがありました。
店の焼け跡から金庫を見つけた政雄さんは、そのお金を頼りに日用品を仕入れては闇市で売るという暮らしを続け、店の再建資金を溜め込みます。とはいえ、家族を養いながら、店の再建資金を貯めることは容易ではなかったようで、蔦金商店が再建出来たのは、昭和23年(1948年)になってからとなりました。
蔦金商店2度目の危機は出川哲朗の父が先物取引に失敗したせい?
現在の蔦金商店の社長は出川雄一郎さんです。
雄一郎さんは、出川哲朗さんの兄であり、出川さんは蔦金商店の取締役を務めていた時期もありました。
蔦金商店2度目の経営危機は、3代目社長となった出川誠一郎の代に起こりました。誠一郎さんは、出川哲朗さんの父親にあたる人物となります。
昭和6年(1931年)生まれである誠一郎さんは、昭和33年(1958年)に、4歳年下の女性である石井泰子さんと結婚しています。泰子さんの実家も宮城県塩釜市にある海苔問屋であり、2人はいわば同業者同士の結婚となりました。
誠一郎さんと泰子さんの馴れ初めに関しても、宮城産の海苔の仕入れ先を探していた誠一郎さんが、泰子さんの実家を訪ねて来た際に知り合い、交際に至ったと言われております。
結婚から3年後の昭和36年(1961年)に出川政雄さんが亡くなったことで、蔦金商店の3代目社長に就任した誠一郎さんですが、社長としての手腕はイマイチだった模様です。
お中元やお歳暮用に、海苔ギフト需要が伸びていった時代背景により、蔦金商店の経営自体は上り調子な時期が続いたものの、誠一郎さんはそれにかまけて遊んでしまうタイプの経営者でした。
さらには、蔦金商店の良好な経営状態に奢った誠一郎さんは、サイドビジネスなどにも手を出し、蔦金商店の経営はもっぱら泰子さん任せになっていたと伝えられています。
離婚こそしなかったものの、別居という形で誠一郎さんから距離を置き、蔦金商店を切り盛りしていた泰子さんでしたが、昭和56年(1981年)に予期せぬアクシデントが待っておりました。
それは、先物取引に失敗した誠一郎さんの負債が蔦金商店にのしかかり、倒産寸前の財務状態に追い込まれたという悲劇となります。
父・誠一郎は追放され、母・泰子が4代目社長となった蔦金商店!
ちなみに、蔦金商店の経営危機時の出川哲朗さんは、高校3年生でした。
実家が倒産寸前になったことで進学出来なかったということはなかったようで、出川さんは最終的には、映像関係の専門学校に進学しております。
昭和56年(1981年)に勃発した蔦金商店の経営危機でしたが、時代背景に恵まれたこともあり、銀行からの融資により乗り越えることが出来たようですね。ただし、銀行からの要請により、出川誠一郎さんは蔦金商店から追放され、4代目社長には石井泰子さんが正式に就任することになりました。
その後の蔦金商店ですが、泰子さんの手腕により、誠一郎さんのせいで負った負債も返済完了しました。現在の蔦金商店は、出川雄一郎が5代目社長となり、従業員20名ほどの規模の企業として存続しています。
誠一郎さんに関しては、放蕩が祟ったのか、50代の頃には糖尿病が悪化してしまったようで、平成3年(1991年)に58歳の若さで病死してしまいました。ただし、孤独死ということはなかったようで、昭和61年(1986年)頃から泰子さんとよりを戻し、泰子さんに看取られて死んでいった模様です。
ちなみに、誠一郎さんと泰子さんがよりを戻した理由は、糖尿病が悪化して自分の身の回りの世話にも苦慮することになった誠一郎さんが、泰子さんに助けを求めたことがきっかけとなったと言われております。
情け深い女傑とでも言うべき泰子さんですが、平成13年(2001年)に患った癌が原因となり、平成23年(2011年)に76歳で永眠されました。
出川哲郎の女傑すぎる母親の血筋が凄い?
4代目まで続いている出川家は、逆に末代まで大丈夫ということなのかもしれませんね。
「名家三代続かず」や「売り家と唐様で書く三代目」なんてことわざ通りになる寸前だった出川家を救った石井泰子さんですが、血筋をたどると政治家や大物財界人のいる家系だったりします。
放蕩する夫に同調することもなく、蔦金商店を守った泰子さんのルーツは、福島県にあったようです。
泰子さんの父方の実家である三鬼家は、福島県伊達郡にある半田銀山にて、江戸時代末期までは役人をしていた家柄でした。
母・泰子の祖父は三鬼鑑太郎!元国会議員だった?
三鬼鑑太郎さんが社長を務めていた岩手軽便鉄道は、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」に登場する鉄道のモデルとなったことで有名だったりします。
出川哲朗さんの母である石井泰子さんの父方の祖父は、国会議員経験もある三鬼鑑太郎さんとなります。
元々は福島にある半田銀山を管理する役人の家柄であった三鬼家でしたが、明治維新によりその特権を失ってしまいました。しかしながら、鑑太郎さんは福島から上京して、明治大学に進学出来ていますので、三鬼家は明治維新で没落した家系ではなかったようです。
大学卒業後は、岩手県庁の役人となった鑑太郎さんですが、郡長を務めるなど、順調に出世をして行ったと伝えられております。
1878年から1926年まで郡に置かれた地方官吏。1878年の府県官職制によって創設された官職で府県知事によって任命され,身分としては奏任官に位置づけられた。当初は郡内の名望家が任命される例が多かったが,自由民権運動の盛んな地域には,士族あるいは他郡出身者を任じて,弾圧機能を強めた。内務省と知事の監督下に町村を統轄し,上命下達の任に当たったほか,反政府機運の取締りに当たった。
引用:ぐんちょう【郡長】
その後民間に下り、岩手県内の鉄道事業の設立などに携わり、岩手軽便鉄道の社長を務めるほどの名士となった鑑太郎さん。
晩年にあたる昭和11年(1936年)には、衆議院議員総選挙に立候補し、見事当選を果たしています。
岩手軽便鉄道は、鑑太郎さんの当選後半年程度で国有化され、JR東日本の「釜石線」の区間の一部として今日まで現存する形となりました。鑑太郎さんが政治家を目指した理由に関しては、岩手軽便鉄道の国有化のためだったと言い伝えられていたりもします。
慶応2年(1866年)の幕末生まれだった鑑太郎さんは、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に没していますので、まさに騒乱の中で生まれて死んでいった激動の人生だったと言えそうです。
母・泰子の叔父は実業家の三鬼隆!
売上5兆円規模の大手鉄鋼メーカー・新日鐵住金の前身である、日本製鐵や八幡製鐵の社長を歴任した超大物実業家が三鬼隆さんとなります。
石井泰子さんの叔父にあたり、泰子さんの父の兄弟である人物には、実業家の三鬼隆さんがおります。
明治25年(1892年)生まれの隆さんは、東京大学を卒業後に田中鉱山株式会社という製鉄メーカーに就職しますが、こちらの会社は関東大震災の被害により倒産の憂き目にあいました。
その後、日本製鐵清津製鉄所や日本製鐵八幡製鐵所の所長を歴任した隆さんは、終戦直後の昭和21年(1946年)に、日本製鐵の社長に就任しました。
実業家としての隆さんの評判は素晴らしかったようで、昭和24年(1949年)からは、日本経営者団体連盟の前身にあたる旧日本経営者団体連盟の会長に就任しています。
財閥解体の余波を受けて、昭和25年(1950年)に日本製鐵が分割された際には、分割された片割れの八幡製鐵側の社長となった隆さん。
終戦から戦後復興期までの激動の時代の日本を実業家として支えることとなった隆さんですが、志し半ばの昭和27年(1952年)に、航空事故で命を落とすことになりました。
出川哲朗の家族!14歳年下の嫁がいる
名前:阿部瑠理子(あべ るりこ)
生年月日:1978年8月22日
身長:168cm
出身地:秋田県
出川哲朗さんは、2004年に元レースクイーンの阿部瑠理子さんと結婚をしています。
当時の出川さんといえば、「女性に嫌われる男」の代名詞的存在だったため、40歳という年齢で、14歳年下の美女と結婚したことは、ネット界隈にも衝撃を与えることになりました。
FUJIWARAの藤本敏史さんが、人気モデルの木下優樹菜さんと結婚をしたりと、非モテキャラでも現実には女性にモテるのが芸人でもあります。
そのため、「女性に嫌われる男」の出川さんも、プライベイトでは女性にモテモテだったというオチになるのかと思いきや、この結婚に関しては、悪い噂ばかり聞こえて来る状況です。
出川哲朗の嫁・阿部瑠理子に鬼嫁の噂?
ちなみに、阿部瑠理子さんは出川哲朗さんとの結婚を機に芸能界を引退しているため、この噂の真相を問いただすことは不可能となっています。
出川哲朗さんの嫁である阿部瑠理子さんには、鬼嫁説が存在しております。出川さんが積極的にバラエティなどでネタにしているため、実際には話半分に聞いておくべき話なのかもしれませんが、瑠理子さんの鬼嫁ぶりは夫への愛のなさで有名だったりもします。
瑠理子さんの鬼嫁ぶりは、まず出川さんへの「クソテツ」との呼び名で発揮されています。その他、出川さんのイビキがうるさいから寝室は別だったり、キスもNGという本格派鬼嫁な瑠理子さん。
出川さんは結婚してからこれまでに、女性スキャンダルなどはないようなので、瑠理子さんがここまで出川さんを嫌う理由はまさに不明だと言えます。
出川さん本人は、そんな嫁のツンデレぶりが可愛いとオノロケる余裕があるので、瑠理子さんとの仲はそれほど険悪な状況ではないのかもしれませんが、まさに帰宅拒否症になってしまいそうな家庭です。
出川哲朗と阿部瑠理子には別居説もある?
「鬼嫁説」と「別居説」のどちらが本当なのかは分かりませんが、両親も長い間別居していた出川哲朗さんの家系は、家庭運には恵まれていないのかもしれませんね。
出川哲朗さんには、嫁・阿部瑠理子さんとの間に別居説も存在します。これに関しては、ネット上の噂ではなく、週刊誌記者が取材するまで発展したネタなため、かなり信憑性は高いと思われます。
これまでも不仲説が何度も伝えられている夫妻だが、出川本人はその度に「さっき嫁に送り出されて家を出たばかりですよ」などと否定し続けてきた。しかし、夫妻が住むはずのマンション住民からは「結婚3年目あたりから瑠理子夫人の姿は一切、見かけなくなった」という話が聞かれている。
週刊誌記者が出川さんを尾行取材した際にも、1人で外出する出川さんの姿が確認されたのみで、瑠理子さんが自宅マンションから外出した形跡はなかったという状況でした。
どうやら、出川さんと瑠理子さんの別居説が真実だったと言えそうな展開ですが、2人の別居理由には占いが関係して来ているという噂もあります。
古今東西、占い好きな女性は珍しくもありませんが、瑠理子さんは、休日の過ごし方まで占いで決めるほど、のめり込んでしまっていたと言われております。
ここまで占いにハマってしまうと、一種のカルト宗教にハマったも同然の状況ですから、この問題で出川さんと瑠理子さんが衝突することになり、別居に至ったという噂が存在するようです。
出川哲朗に子供はいない?
「鬼嫁説」と「別居説」のどちらが本当でも、子供は出来なさそうな家庭環境ではある出川哲朗さん。
出川哲朗さんと阿部瑠理子さん夫婦には、もちろん子供はおりません。逆に、新婚早々に子供が出来ていれば、「別居説」なんて噂が流れる夫婦関係にはなっていなかったのかもしれませんね。
芸能界では、フリーアナウンサーの宮根誠司さんのように、「実は隠し子がいた!」なんてスキャンダルの発覚する男性もいますが、出川さんの場合は、本当に自分の子供はいないようです。
出川さんは芸能人仲間は多く、中居正広さんや千秋さんなどとの交遊関係は有名だったりもします。そのため、プライベイトでもそれなりに充実した日々は送っていることでしょうが、老後に向けて一抹の寂しさを感じさせる私生活ではあります。
まとめ
離婚がタレント生命のダメージとなるタイプの芸能人ではないだけに、結婚生活が継続していることが謎と言える出川哲朗さん。
出川哲朗さんと阿部瑠理子さんとの間には、数年前から離婚秒読み説なども流れていますが、現在のところは離婚する様子もなく、まさに謎の多い夫婦関係だと言えます。
「鬼嫁説」と「別居説」のどちらが真実にしても、傍から見ると離婚した方が良いように思える出川さんですが、離婚を選択しないだけの理由が、夫婦間には存在するということなのでしょうね。