財務省批判でも話題だった経済アナリストの森永卓郎さんが67歳で亡くなりました。
この記事では森永卓郎さんの若い頃からの経歴や大学など学歴、嫁の弘子さんとの結婚や子供と息子の森永康平さん、自宅や死因となった病気の原発不明がんなどについてまとめました。
この記事の目次 [目次を非表示]
- 森永卓郎のプロフィール
- 森永卓郎の若い頃や学歴① 「目黒区立鷹番小学校」出身だが3年間は海外
- 森永卓郎の若い頃や学歴② 出身中学は「新宿区立落合中学校」
- 森永卓郎の若い頃や学歴③ 出身高校は「東京都立戸山高等学校」
- 森永卓郎の若い頃や学歴④ 出身大学は「東京大学経済学部」
- 森永卓郎の経歴① 東京大学卒業後は日本専売公社(現在のJT)へ
- 森永卓郎の経歴② 総合研究所で経済や社会政策の研究員として活躍
- 森永卓郎の経歴③ 経済アナリストとして人気を獲得
- 森永卓郎は社内結婚で嫁はバレーの実業団選手だった弘子さん
- 森永卓郎の子供は息子が2人で長男は経済アナリストの森永康平
- 森永卓郎の自宅
- 森永卓郎の死因は病気で「原発不明がん」
- まとめ
森永卓郎のプロフィール
森永卓郎のプロフィール
生年月日:1957年7月12日
没年月日:2025年1月28日(67歳没)
出身地 :東京都目黒区
森永卓郎(もりなが・たくろう)さんは、経済アナリスト、エコノミストとして活躍されていた方で、マクロ経済学、計量経済学、労働経済学、オタク文化論などを専門とし、テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍。
タレントとして様々なジャンルのバラエティ番組や、俳優としてテレビドラマや映画にも出演するなど幅広く活躍された方でした。
晩年は末期がんである事を公表しつつメディア出演を続け、若い頃から一貫して行ってきた財務省批判をさらに強めた他、日経平均が3000円まで下がるといった無茶苦茶な予測を打ち出して大いに注目されてある意味で死に花を咲かせ2025年1月28日に67歳で亡くなりました。
森永卓郎の若い頃や学歴① 「目黒区立鷹番小学校」出身だが3年間は海外
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森永卓郎さんは毎日新聞の記者だった父親の森永京一さんの留学と海外支局への異動に伴って幼い頃から海外で育ち小学1年生の時はアメリカのボストン、4年生の時にはオーストリアのウィーン、5年生の時にはスイスのジュネーヴと合計で3年間を海外で過ごしました。
小学2年生と3年生、6年生は東京都目黒区の公立校「立鷹番小学校」に通っていました。
各国を転々とした事もあって言葉の壁にもぶつかり、森永卓郎さんは日本でも海外でも小学校に馴染めずに、欧米ではアジア人差別もありいじめられて引きこもりがちになり、それを見かねた父親がミニカーをたくさん買い与えてくれ、それがきっかけになって森永卓郎さんはミニカーの収集家になったのだそうです。
新聞記者だった父親の都合で、小学校6年間のうち1年生の時は米国ボストン、4年生はウィーン、5年生はジュネーブと、3年間海外暮らしでした。
海外でも日本でも、言葉の問題などから、よくいじめられました。ウィーン滞在時代、友達ができない状況を見かねてか、父がミニカーをたくさん買い与えてくれたんです。それにはまり、今でもミニカー収集を続けています。
森永卓郎の若い頃や学歴② 出身中学は「新宿区立落合中学校」
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森永卓郎さんは小学校卒業と同時に新宿区高田馬場に引っ越して「新宿区立落合中学校」に進学。これを境にいじめられる事はなくなり、バレーボール部や卓球部に所属しバンドも結成するなど楽しい中学生活を送ったそうです。
森永卓郎の若い頃や学歴③ 出身高校は「東京都立戸山高等学校」
森永卓郎さんは1973年3月に中学校を卒業し、全国でも屈指の進学校である「東京都立戸山高等学校」(最新の偏差値は71)へ進学しています。
森永卓郎さんは中学時代から成績優秀で高校受験では戸山高校を含めて3校に合格し、最初は私立大学の附属高校へ進学したいと考えたそうです。しかしその理由が「大学受験がないから毎日麻雀ができて楽しい」と先輩に聞いた事だったのが父親の森永京一さんにバレて「お前のような人間が付属高校に入ると、絶対勉強しなくなる」と一喝されて、最終的に戸山高校へ進学する事になったのだそうです。
森永卓郎さんは高校時代は勉強の時間はせいぜい1日2時間程度で、留年していた年上の同級生に性的な知識などを学ぶ事に熱心だったそうです。
1年生の時、留年した年上の同級生がいて、不良だった彼は同世代の彼女と同棲していた。ある日、彼が「これがキスマークって言うんだぜ」と自慢げに見せてきたのがきっかけで、性のテクニックなどについていろいろ聞きました。
実際に彼女とコトに及んでいたので、話も実践的でわかりやすい。それで初めて男女の機微を詳しく知りました。
森永卓郎の若い頃や学歴④ 出身大学は「東京大学経済学部」
高校時代には1日2時間程度効率的に勉強して学力をつけたという森永卓郎さんは、大学受験では慶應大学の経済学部、早稲田大学の理工学部、東京医科歯科大学(現在の東京科学大学)の医学部、防衛医科大学、そして東京大学の理科二類の入学試験を受験しました。
この受験のラインナップを高校の担任に伝えた時には「なんだそのラインナップは無茶苦茶だ」と言われたそうなのですが、当時の森永卓郎さんは「効率的、効果的に儲けたい!」という考えを持っており、それを基準としたラインナップだったようです。
大学受験の結果は、早稲田大学、慶應義塾大学、東京大学に合格し、防衛医科大学と東京医科歯科大学は落第で、森永卓郎さんは東京大学理科二類に進み、その後、経済学部へと進んでいます。
通常、東京大学理科二類から進める学部は農学部、薬学部、理学部、工学部、医学部などですが、森永卓郎さんは文系の学生が彼女を連れて楽しそうにしているのを見て、経済学部に転部しようと思い立ったそうです。
ただ、途中で学部進学の振り分けを変えるのは難しく定員はわずか3人程度だったそうです。そこで森永卓郎さんは転部を目指していた他の生徒に「どこか遊びに行ったら?」と唆しつつ、自分は、猛勉強をしてそこに滑り込んで経済学部への転部を果たしています。
森永卓郎の経歴① 東京大学卒業後は日本専売公社(現在のJT)へ
森永卓郎さんは1980年3月に東京大学経済学部を卒業し、4月から日本専売公社(現在の日本たばこ産業株式会社、JT)に入社して働き始めています。
森永卓郎さんは日本専売公社では研修後、管理調整本部主計課資金係へと配属され1982年からは日本経済研究センター総合計画局に出向して予測研究員を務め1983年に日本専売公社に復帰して渋谷営業所で1年間勤務した後、1984年に当時の経済企画庁に出向し労働力及び人的能力担当計画官付委嘱調査員として勤務しています。
経済企画庁は総理府の外局で実態は役所だったという事ですが、出向した翌年の1985年に日本専売公社が民営化されて現在の日本たばこ産業株式会社(JT)が設立されました。
民間企業から経済企画庁への出向者には、経済企画庁から給料のうち手当分が支給される仕組みになっていたのが、突然民営化されたために財源の予算が確保されず、森永卓郎さんはJT側からの基本給相当しか受給できないという事になり、当時の手取りはわずか13万円になってしまったのだとか。
しかも森永卓郎さんは近いうちにバブル景気が来ると確信していたため、埼玉県の所沢に一戸建てを購入。結果的に住宅ローンを返済すると手取りがわずか6万円を切るという事態になったそうです。加えて1985年には子供(息子の森永康平さん)が生まれたばかりで、収入を補うために雑誌への寄稿を始められたそうです。
当時はまさに極貧状態だったそうで、晩御飯のおかずがハムエッグやひじきだけという日もあったのだそうです。
森永卓郎さんは1986年にJTに戻り製造本部製造企画課に配属されましたが、当時の上司が森永卓郎さんの生活苦を見かねて「俺が紹介してやるからシンクタンクに行け。高い給料も出るし、仕事も似てるから」といってくれその年に三井情報開発総合研究所に出向し、1988年1月付でJTを退職して2月より正式に三井情報開発総合研究所に移籍されています。
森永卓郎の経歴② 総合研究所で経済や社会政策の研究員として活躍
森永卓郎さんは1988年2月にJTから三井情報開発総合研究所(現在の三井情報株式会社)に移籍し、副主任研究員に就任。
当時はバブル経済だった事もあって残業代は青天井だったそうで、プロジェクトを20本以上回していて猛烈に忙しかったという森永卓郎さんの給料は、入社翌々月にはなんと約100万円に到達したそうです。
手取りが5万円〜6万円から約100万円に給料が爆上がりした森永卓郎さんは自慢したくなり嫁に「どうだ。こんなに増えたよ」と給与明細を見せたそうなのですが、99万数千円だったため、嫁さんは「もう少しで大台だったのにね」と言うだけであまり褒めてくれなかったのだそうです。
その後、森永卓郎さんは1991年に三和総合研究所(現在の三菱UFJリサーチ&コンサルティング)に移籍して研究開発部副主任研究員に就任しました。
三和総研研究所は後発のシンクタンクで、森永卓郎さんが入社した当時は基礎的な資料も揃っていない状態で、システムも親会社の銀行流のルールで運営されていたそうです。
そこで、森永卓郎さんは抜本的な改革に乗り出し、研究員の報酬完全歩合制に変えて相互評価のシステムを作る事によって人事と評価の権利を役員達から切り離したそうです。
この改革により研究員達のモチベーションは上がり、日本一のシンクタンクへと成長したという事です。
実績を上げた森永卓郎さんは三和総研研究所では1992年に研究開発部主任研究員、1993年に研究開発第3部(経済・産業・社会政策)主任研究員、1997年〜2000年までは経済・社会政策室 室長兼主任研究員、同年、経済・社会政策部部長兼主席研究員と昇進を重ね、2002年の三和総研と東海総研の合併によりUFJ総合研究所となった際には経済・社会政策部 部長兼主席研究員に就任しています。
森永卓郎さんは同社での最後の4年〜5年は社長よりもはるかに高い給料を受け取っていたそうです。
森永卓郎の経歴③ 経済アナリストとして人気を獲得
森永卓郎さんは三和総研に在籍していた1990年代の後半頃からテレビ神奈川の「アクセスNOW」などのメディアに出演するようになり、この頃から「経済アナリスト」という肩書きで活動し始めました。
「経済アナリスト」として人気を得た森永卓郎さんは「ビートたけしのTVタックル」、「ニュースステーション」、「サタデーずばッと」、「がっちりマンデー!!」、「情報ライブ ミヤネ屋」などの数多くのテレビ番組に出演し知名度を上げました。
2006年からは獨協大学の経済学部教授も務めた他、タレントとしての活動も始めバラエティ番組にも活躍の幅を広げただけでなく、俳優にも挑戦し「SPEC」や「警部補 矢部謙三2」、最近では「義母と娘のブルース2022年謹賀新年スペシャル」などのテレビドラマに出演しました。
森永卓郎は社内結婚で嫁はバレーの実業団選手だった弘子さん
出典:https://www.sponichi.co.jp/
森永卓郎さんは、東京大学卒業後に就職した日本専売公社(その後JT)に務めていた1983年に、同社の関東支社予算課の社員で実業団のバレー選手としても活躍されていた2歳下の弘子さんという女性と結婚されています。
結婚したのは専売公社時代の1983年、私が25歳、妻が23歳の時だった。入社してすぐに、主計課という予算配分を握る部署に配属されて天狗になっていた私は、関東支社の予算課から「森永さん、忘年会をやるので参加していただけませんか」と誘われた。官官接待というやつだ。その時、思いあがっていた私は「行ってもいいけど、女連れて来いよな」と言った。果たして関東支社は、予算課に勤める若い女性を連れて来た。それが妻だった。
引用:〈森永卓郎さん死去〉「ただ一人、妻だけが私を“キモイ”と言わなかった」余命宣告された森永氏が身辺整理で見せていた妻への愛
結婚を申し込んだのは森永卓郎さんからだったそうで、嫁の弘子さんが結婚を受けた理由は「怒らないから」だったそうです。
妻がぼくのプロポーズを受けてくれた最大の理由は“怒らないから”。たしかにぼくは感情的になることがめったにない。なんで? そういう性格なんですよ。妻はよく怒るけど(笑い)
森永卓郎さんは若い頃から多忙を極めていたためあまり自宅に帰らず、子供が産まれた後は嫁の弘子さんのワンオペ育児のようになり、我慢の限界を超えた弘子さんとの夫婦仲が悪化した時期もあったようです。
また、2006年に森永卓郎さんの父親が病気で倒れ半身不随になった後は、嫁の弘子さんが献身的に介護をして大変な苦労をされたそうで、森永卓郎さんの仕事中に嫁の弘子さんから「誰のお父さんでしたっけ」とメールが届き、それでも森永卓郎さんが目の前の仕事に追われてメールに返信しないでいたところ「もう離婚するしかない」と離婚を突きつけられた事もあったのだそうです。
それでも森永卓郎さんと嫁の弘子さんは離婚の危機を乗り越えて結婚生活を続け、2023年に森永卓郎さんにがんが発覚して自宅にいるようになって朝から晩まで夫婦で過ごすようになり、森永卓郎さんは嫁の弘子さんと一緒にテレビを観たりスーパーに行ったりするのがとても新鮮で、結婚して40年目にして初めて新婚気分を味わっているとも話されていました。
森永卓郎の子供は息子が2人で長男は経済アナリストの森永康平
森永卓郎の子供(息子)・森永康平のプロフィール
生年月日:1985年2月5日
出身地 :埼玉県所沢市
森永卓郎さんの子供は息子さんが2人で1985年に産まれた長男の森永康平さんと、1989年に産まれた次男(ITエンジニア、名前は非公表)です。
森永卓郎さんの息子さんのうち長男の森永康平さんは証券アナリスト、経済アナリスト、株式会社マネネ代表取締役社長を務める実業家として活躍されています。
森永卓郎さんの息子である森永康平さんは中学生の頃に父が持ち帰ってきた経済リポートを読んで経済学に興味を持ったそうです。
中学生の頃、父が勤め先の経済リポートを持ち帰って、「裏に絵でも描くのに使え」と言うんです。絵を描くのに飽きた時にリポートを読んだのですが、難しかった。父に解説を頼んだら、分厚い経済学の教科書を2冊渡され、「自分で勉強しろ」(笑)。でも、その経験のおかげで、大学の授業は知っていることばかりでした。それで経済に興味を持ったのは事実ですね。
その後、森永卓郎さんの息子の森永康平さんは明治大学政治経済学部を卒業後にネット証券やベンチャーキャピタルなどを運営する大手企業「SBIホールディングス」に入社してエコノミストやアナリストとして活躍。
その後、外資系運用会社への転職を経て、台湾で金融系IT企業、マレーシアでの起業を経て2018年に子供向け金融教育などを手掛ける株式会社マネネを設立して代表取締役社長に就任しました。
森永康平さんは「森永卓郎の息子」の肩書きでメディアにも数多く出演し一般にもよく知られています。かなり本格的に格闘技にも取り組んでおり、2024年8月30日にはキックボクシングの大会「EXECUTIVE FIGHT武士道」にてタイトルマッチに初挑戦して勝利して初タイトルを獲得し話題になりました。
森永卓郎の自宅
出典:https://presidenthouse.net/
森永卓郎さんの自宅は埼玉県所沢市の住宅街に建つ戸建ての一軒家です。
森永卓郎さんは晩年は自宅の近くに20坪の畑を借りて10種類の野菜を育てたり、これまでに収集した食玩やフィギュア、グリコのおまけ、おもちゃの缶詰、指人形、ミニカーなどの約10万点以上のコレクションを展示する「B宝館」をオープンさせたりと自宅での生活を満喫されていました。
森永卓郎の死因は病気で「原発不明がん」
森永卓郎さんは2025年1月28日に67歳で自宅で亡くなりました。死因は「原発不明がん」と発表されています。
ステージ4の膵臓(すいぞう)がんで闘病中だった経済アナリスト森永卓郎(もりなが・たくろう)さんが28日午後1時33分、原発不明がんのため、自宅で亡くなった。67歳だった。この日、所属事務所が発表した。葬儀は近親者のみの家族葬で執り行うという。発表では「このたび、森永卓郎(67歳)が、1月28日(火)13時33分、原発不明がんのため、自宅にて逝去いたしました」と報告。
森永卓郎さんは2023年12月に膵臓がんの病気を公表し、その後は闘病しながら精力的にメディアに出演し、残りの人生を賭して「とにかく権力と戦う」として、亡くなる直前までメッセージを発信されていました。
まとめ
今回は、メディアにも数多く出演した人気の経済アナリストで、2025年1月28日に亡くなった森永卓郎さんについてまとめてみました。
森永卓郎さんの若い頃の学歴や経歴については、小学生時代は父親の仕事の関係で3年間をアメリカ、オーストリア、スイスなどで過ごし、帰国後は「新宿区立落合中学校」から名門「東京都立戸山高校」を経て「東京大学経済学部」を卒業。東京大学卒業後は日本専売公社(現在のJT)、三井情報開発総合研究所、三和総合研究所などで活躍されました。
メディアに出演し始めたのは1990年代半ば頃からで、わかりやすくユニークなトークですぐに人気を得て、タレントや俳優業にまで活躍の幅を広げました。
森永卓郎さんは1983年に日本専売公社で同僚だった女性と結婚しています。嫁は弘子さんという2歳年下の女性で、子供は息子が2人生まれています。息子のうち長男は森永康平さんで経済アナリスト、証券アナリスト、実業家として活躍されています。
森永卓郎さんは2025年1月28日に埼玉県所沢市の自宅で67歳で亡くなりました。死因は「原発不明がん」と発表されています。