「ステゴロ最強」「伝説の喧嘩師」とも呼ばれた伝説的ヤクザ・花形敬が話題です。
この記事では、花形敬の経歴や身長や筋肉、伝説や結婚した嫁や息子、娘などの子供、子孫の現在、刺殺事件での最後や死因などについてまとめました。
この記事の目次
花形敬のプロフィール
花形敬のプロフィール
生年月日:1930年(月日は不明)
出身地 :東京都世田谷区船橋町
花形敬は、戦後の時代に安藤昇が率いた伝説的なヤクザ組織「安藤組(株式会社東興業)」の大幹部で、その豪放磊落な生き様と人間離れした武勇伝により、現在でも伝説的存在として語られています。
花形敬は素手での喧嘩では敵なしだったと言われており、「ステゴロ最強」、「伝説の喧嘩師」の異名でも呼ばれていて、喧嘩のときは刃物や銃器などの武器を一切持たずに素手にこだわった事でも知られています。
その圧倒的な喧嘩の強さに加えて、顔面に大きな傷痕があり、好んで白いスーツを着込むといった特徴的な見た目から当時の都内のヤクザ、不良達の間では有名な存在でした。
花形敬の生い立ち① 東京世田谷の名家の生まれ
花形敬は、父・正三と、母・美衣の間に6人兄弟の末っ子として1930年に生まれました。
花形敬の生まれた花形家は、少なくとも戦国時代から400年以上続く名家で、甲斐の武田家の重臣の流れを汲み、現在の東京都世田谷区に広大な土地を持つ裕福な家で、全盛期には自宅には門番が立ち宅地の中にテニスコートまであったと言います。
花形敬は生まれた時から身体が大きく、助産師が感嘆するほどであったそうです。
花形敬の生い立ち② 小学校時代
花形敬は、1937年4月に塚戸小学校に入学し、1941年4年生の3学期を終えた後に自宅の近くに新しく開校した世田谷区の経堂小学校に転校しています。小学校時代の花形敬は運動も勉強もできクラスの級長も務めました。
また、子供時代の花形敬は正義感が強い性格で、経堂小学校の生徒が他校の上級生にいじめられた時、その上級生を捜し出して、どこまでも追い回し叩きのめしたというエピソードが残されています。
花形敬の生い立ち③ 難関の千歳中学に入学し5年生途中まで在籍
花形敬は経堂小学校の卒業後、難関校として知られていた千歳中学校を受験して合格し入学しています。経堂小学校からは他にも何人か千歳中を受験していましたが、合格したのは花形敬だけでした。その時に千歳中学の同期は250名でしたが、花形敬の成績は上位10人に入っていたようです。
花形敬が中学に入ったばかりの頃はとりたてて不良という事はなかったという事ですが、喧嘩が滅法強く、勉強や運動も良くできたためリーダー的存在だったようです。また、中学時代にも同級生が他校の生徒に囲まれて殴られているのを助けたというエピソードが当時の同級生から多く語られています。
花形敬は千歳中4年(旧制中学は5年制)の時、当時、国士舘中学にいた石井福造(後の住吉連合会常任相談役、住吉会住吉一家石井会会長)と喧嘩をして圧倒したというエピソードも残されています。
この頃の花形敬は、中学では特に問題を起こさなかったものの、外では日大や明治大学の学生と喧嘩を繰り返し、よく警察沙汰になっていたようです。
敗戦の翌年の1946年に千歳中学では生徒によってラグビー部が創設されました。当時千歳中5年だった花形敬もこのラグビー部に参加しています。ポジションはその大きな体を活かしてフォワードのセカンドローでした。
しかし、ちょうどその頃、花形敬が学校の屋根裏に喫煙所を作り、それが教師にバレるという不祥事を起こした事をきっかけに、ラグビー部も白い目で見られるようになり、花形敬はラグビー部に迷惑をかけたくない思いからか自主的に退部し、それから程なくして千歳中学も自主退学しています。
花形敬の生い立ち④ 国士舘中学へ転入
千歳中学を自主退学した花形敬は、国士舘中学へと転入しています。ここで、花形敬は前出の石井福造と番長争いをして打ち負かし、すぐさま番長の座へとおさまっています。
この頃、花形敬は石井福造とつるんでおり、交際相手の女子学生の学校のバザーに連れ立って訪れた時、花形敬が明大予科の学生3人に喧嘩を売られるという事件が起きます。この時花形敬は「石井ちゃんはいいから彼女でも連れて見てな」と言って余裕な様子を見せていたそうです。
明大予科の学生3人は「ちょっと来なよ」と校庭の隅の方へ花形敬を連れて行こうとしますが、その瞬間に花形敬のフックがそのうちの1人に炸裂し一発でノックアウトし、続いてもう1人も蹴りは使わずにパンチだけで簡単に片付け、最後の1人はわざと左ジャブで追い込んで、最後に右のストレートですっ飛ばしてしまったそうです。
石井福造の証言によれば、大きな身体のやつが、花形敬のパンチで本当にぶっ飛んでしまったのだそうです。石井福造によれば、この3人を片付けるのに時間は1分もかかっておらず、ほんの何秒かの出来事だったという事でした。
この事件の後、花形敬は国士舘中学の番長の座を不動のものとし、世田谷中や荏原中、園芸学校といった周辺中学の不良グループも瞬く間に制圧しています。
しかし、花形敬は国士舘入学からほんの数ヶ月後に喧嘩で警察沙汰になり、国士舘中学を退学になっています。その後、花形敬は明治大学予科に入学しラグビー部に所属しています。この明大予科時代も花形敬は喧嘩に明け暮れ、柔道部から空手部、相撲部までかたっぱしから押さえてしまったようです。
花形敬の生い立ち⑤ 安藤昇の舎弟になり安藤組に入る
花形敬はその後、渋谷などを中心に独立独歩の不良として暴れまわっていましたが、1950年、20歳の頃に、当時・安藤昇の舎弟として安藤組で働いていた、石井福造の口利きで、安藤昇の舎弟となり、安藤組に入っています。
花形敬は安藤組に所属したといっても、元々独立心が強い人間であり、組織に帰属しているという意識はあまりなかったようです。しかし、安藤昇はそんな花形敬を気に入り、幹部として重く用いました。
花形敬の身長
花形敬の身長は、当時の新聞に174cmと書かれた事があるのですが、残されている花形敬の写真などから推定して、小さく見積もっても身長180cmはあるというのが定説となっています。
また、生前の花形敬の姿を知る人物の多くは「花形敬の身長は180cm以上はある」、「花形敬は身長185cmくらいあった」などと証言しており、花形敬の身長が174cmというのは誤情報の可能性が高そうです。
また上でも登場した石井福造の証言によれば、花形敬は17歳の頃には身長が182cmあったという事なので、おそらくこの情報が最も真実に近いのではないかと思います。
花形敬が活躍した時代の平均身長は現在よりもずっと低いので、180cm超えの高身長は現在の感覚で言えば2mくらいあるような印象だったと言われています。
花形敬は「グラップラー刃牙」の花山薫のモデルで筋肉も注目されている
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花形敬は、板垣恵介さんの大ヒット格闘技漫画「グラップラー刃牙」に登場する人気キャラクター・花山薫のモデルとしても知られています。
「グラップラー刃牙」の花山薫といえば、人間離れした筋肉を持つキャラクターですが、そのモデルである花形敬の筋肉にも注目が集まっているようです。
伝説的に語られる花形敬なので、筋肉も人間離れしていたとの説もあるのですが、実際に花形敬が筋肉をあらわにしている画像や、筋肉に関する証言なども見つからないため実際のところは不明です。
花形敬の身長が噂の通り仮に185cmだったとすれば、現在の標準的な体重では75kg〜76kgほどですが、花形敬は体重が80kg後半から90kg以上はあったと言われているようです。現在よりも栄養状態が悪かったはずの当時で、仮にそれだけの体重があったとすれば、花形敬がかなり筋肉質であった可能性は高いでしょう。
また、花形敬は学生の時代から、庭先に石を詰め込んだ手製のサンドバッグを吊るして、パンチやキックの練習に打ち込んでいたというエピソードや、伝説的に語られる喧嘩の強さのエピソードなどから相当鍛え上げられた筋肉を持っていた事は間違いないと思われます。
花形敬の伝説
花形敬の伝説として最もよく知られているのが、拳銃で掌と腹を撃たれて病院に運ばれ、全治4ヶ月の診断を受けたにも関わらず病院抜け出し、撃った相手を街中探しまわった挙句、なかなか見つからないとなると、朝鮮料理屋に入ってコップ酒を煽りながら焼肉3人前を平らげ、挙げ句の果てに、朝方に女を呼んで宇多川町の「岩崎旅館」に入って女を抱いたというものです。
事態を知った安藤昇が、花形敬に事情を尋ねても何も語らず、そのうちに花形のズボンの裾から撃たれたときの弾丸がぽろっとこぼれ落ちた事なども伝説的に語られています。
なお、この時に花形敬を襲撃したのは、同じ安東組幹部だった石井福造の配下の牧野昭二でした。この頃の安藤組では幹部同士の派閥争いがあり、石井福造は過去の因縁もあって花形敬に激しい敵意を抱いていて、配下の牧野昭二に拳銃を持たせて花形敬を襲撃させたのでした。
その後、石井福造は花形敬からの報復に怯えますが、なんと花形敬は石井福造を許し、その後保釈祝いだとして酒席まで開いています。後に、石井福造は、これをきっかけに花形敬と心から打ち解けたと語っています。
花形敬の嫁や千鶴子や息子や娘などについて
花形敬の嫁は1歳年下の千鶴子という女性で、渋谷区本町にあった関東女学院に通っていた頃に花形敬と知り合って同棲をはじめ、18歳の頃に娘を妊娠して結婚しています。
当時を知る人物の証言によれば、花形敬の嫁の千鶴子は、エリザベス・テーラーを日本風にしたような色白の美女で、身長は低く小柄ながらスタイルの良い女性だったそうです。
花形敬はこの嫁の千鶴子に暴力を振るう事もあったそうですが、反面優しいところもあったようです。
1952年のはじめ頃、この嫁の千鶴子が、花形敬を賭場に迎えに来た時に、花札をやる事になりその時にタイミング悪く警察の手入れが入って賭博現行犯で逮捕されてしまった事があったそうです。この時、花形敬は嫁の千鶴子を心配し、毛布を買い込んだり、差し入れを持っていたりし、さらには警察に、「俺を代わりに入れて、女を出せ」と凄んだりして大変だったのだそうです。
しかし、花形敬と嫁の千鶴子はその後、離婚しています。花形敬が宇都宮刑務所に服役している時、嫁の千鶴子に別に愛人ができ、その愛人と結婚へと話が進み、花形敬は刑務所の中で離婚届に判を捺しています。
花形敬と嫁の千鶴子の間には1人娘がいた事は間違いありませんが、息子がいたといった情報はないようです。
花形敬の子供に関するエピソードはあまりないのですが、宇都宮刑務所から出所した後の1956年の夏頃、元嫁の千鶴子の実家へと深夜に押しかけて「子供を出せ、海水浴に行くんだ」と言ったそうです。この時、元嫁の千鶴子は花形敬を拒絶し警察を呼んでいます。
また、花形敬は元嫁の千鶴子と離婚した後、いつの頃かは不明ですが再び結婚し、年若い後妻をもらっているようです。この2人目の嫁については名前や子供の有無など含めて不明です。
花形敬の子孫の現在は?
花形敬に娘がいた事は間違いありませんが、その子孫が現在もいるのかどうについては情報などは噂も含めて一切なく不明です。
花形敬の最後は抗争中の刺殺で死因は失血死
花形敬は、1963年9月27日に33歳でこの世を去っています。
伝説的存在であった花形敬の最後はあっけないもので、抗争中の敵対組織の組員に両脇腹を柳刃包丁で刺されての死去でした。死因は失血死と思われます。
当時、花形敬は服役中の安藤昇に代わって、組長代行として安藤組の代表の立場にありました。
そんな中で安藤組の組員の1人が町井一家(東亜会)の若い衆と諍いを起こし、顔面と腹を刃物で滅多斬りにしてしまいます。
町井一家は、報復のために安藤組の代表の立場にある花形敬を狙い、安藤組事務所に張り込んで花形敬の後をつけて自宅アパートを突き止めました。
1963年9月27日の23時過ぎ頃、花形敬はアパートの近くの道路脇に車を停めて降りたところを、停車してあったトラックの影から現れた2人の男に挟まれ、「花形さんですか」と声をかけられて「そうだ」と答えたところを、右と左の両側から柳刃包丁で脇腹を刺されました。
花形敬はアパートの方向へ200メートルほど走って逃げたところで、昏倒しその場で絶命しました。
まとめ
今回は、「ステゴロ最強」、「伝説の喧嘩師」と呼ばれた伝説的ヤクザの花形敬についてまとめてみました。
花形敬は、東京都世田谷の名家の出身で、子供の頃から喧嘩が強く、戦後の混乱期を自分の力だけを頼りに生き抜いてきたような男で、千歳中学、国士舘中学を経て、明治大学予科へ進み、その後、安藤昇が率いる安藤組に所属してその大幹部になりました。
花形敬の身長ははっきりしませんが、174cm〜185cmほどと見られており、国士舘中学と安藤組で一緒だった石井福造は、花形は17歳の頃には身長が182cmあったと証言しています。
花形敬19歳の頃に結婚しており、嫁は千鶴子という名前で女優のエリザベス・テーラーを日本風にした美女だったそうです。花形敬はこの嫁の千鶴子との間に娘を1人儲けていますが、その後離婚しています。
花形敬に娘がいたのは確かですが、その子孫の存在は不明で、現在も存続しているのかもわかりません。
花形敬の最後は、抗争中の敵対組織の構成員に襲撃され刃物で刺されて死亡しています。