ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した安重根ですが実は反日ではなく、どんな動機で犯行に及んだのでしょうか?
今回は安重根がなぜ伊藤博文を暗殺したのか事件詳細、動機と思想、韓国での英雄扱いと最期の言葉や死因、子孫の現在を紹介します。
この記事の目次
- 安重根は伊藤博文暗殺の犯人
- 安重根に暗殺された伊藤博文は元内閣総理大臣&元韓国統監
- 安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細① 同志12人と決起・暗殺計画を立てる
- 安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細② ハルビン駅で銃撃・暗殺を実行
- 安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細③ 伊藤博文は30分後に死亡
- 安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細④ 安重根はすぐに逮捕&日本に身柄引き渡し
- 安重根はなぜ伊藤博文を暗殺した?尋問で明らかになった15の動機
- 安重根の思想を解説① 明治天皇を敬愛&反日思想はない
- 安重根の思想を解説② 東洋の平和を願う
- 安重根に暗殺された伊藤博文の思想は韓国併合反対派
- 安重根が伊藤博文を暗殺した動機の疑問点
- 安重根が伊藤博文を暗殺した動機を分析
- 安重根の伊藤博文暗殺で日韓併合が実現
- 安重根は伊藤博文暗殺事件の犯人ではない?① 複数犯人説
- 安重根は伊藤博文暗殺事件の犯人ではない?② 黒幕が他にいた?
- 安重根の生い立ち・経歴① 教育熱心な家庭に生まれる
- 安重根の生い立ち・経歴② 17歳でキリスト教徒に
- 安重根の生い立ち・経歴③ 1904年から愛国啓蒙運動に没頭
- 安重根は韓国の英雄
- 安重根は伊藤博文暗殺事件により死刑判決
- 安重根は「獄中記」を残す
- 安重根の最期の言葉
- 安重根の死因は絞首刑(縊死・脳虚血)
- 安重根の子孫は現在アメリカ人
- 安重根のまとめ
安重根は伊藤博文暗殺の犯人
安重根
ハングル:안중근
生年月日:1879年9月2日
没年月日:1910年3月26日
出身:李氏朝鮮、黄海道海州
活動:大韓帝国の独立運動家
安重根は大韓帝国の独立運動家で、1909年に北満州のハルビン駅構内で日本の元総理大臣である伊藤博文を銃撃して暗殺した暗殺犯です。
日本では「暗殺犯」・「テロリスト」、つまり犯罪者として認識されていますが、韓国では「英雄」として認識されていて、反日の象徴という扱われ方をしています。
安重根に暗殺された伊藤博文は元内閣総理大臣&元韓国統監
伊藤博文
生年月日:1841年10月16日
没年月日:1909年10月26日
出身:現在の山口県光市
所属:立憲政友会
活動:政治家
伊藤博文は日本の初代内閣総理大臣などを歴任し、明治憲法と立憲政治の確立した功績を評価されている政治家です。
1841年に長州藩(現在の山口県光市)で生まれ、吉田松陰の松下村塾で学び、尊王攘夷運動に参加しますが、1863年に藩命でイギリスに密航で留学し、そこで開国論者となりました。
帰国後は高杉晋作の功山寺挙兵に参加し、長州藩の主流派に躍り出ます。そこから藩政改革に参画し、対外交渉などを任されるようになりました。
明治維新後は新政府に出仕し、イギリスに行って翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導するなど、官僚として頭角を現します。大久保利通が暗殺されると、内務卿に就任し、明治政府の中心人物になり、1885年には初代の内閣総理大臣に就任しました。1889年には日本最初の近代憲法である明治憲法を制定します。
その後、第2次、第3次、第4次伊藤内閣を組閣しますが、1901年に閣内一致で総辞職、1903年には立憲政友会の総裁も辞して、元老の立場に戻りました。
1905年には初代韓国統監に就任し、韓国の国内改革と保護国化の指揮を執り、1909年6月に韓国統監を辞職しています。
安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細① 同志12人と決起・暗殺計画を立てる
安重根は1909年10月26日に、北満州のロシア領であるハルビン駅構内で伊藤博文を銃撃して暗殺しましたが、暗殺に至るまでの経緯を見ていきましょう。
事件の約11ヶ月前の1909年1月1日、安重根は大韓帝国の独立運動をしていた関係で、ロシアのウラジオストクにいました。
そして、そこで同志12人と薬指を切断し(指詰め)、その血液で大極旗の前面に「大韓獨立」を書いて決起します。
そして、1909年9月頃に伊藤博文を暗殺することを決めました。
10月10日~15日、大東共報社を安重根・禹徳淳・曹道先の3名が訪問し、伊藤博文暗殺に関する議論を重ねたといいます。
その後、ロシア人社長と編集長から軍資金を借りて、10月21日にウラジオストクを安重根・禹徳淳2名で出発します。
この時、安重根と禹徳淳はすでに拳銃を入手していて、途中でロシア語通訳のために劉東夏を同行させ、ハルビンに到着しました。
ハルビン到着後に曹道先と合流し、さらに資金調達や情報収集などを行います。
伊藤博文がいつハルビン駅にやってくるかは詳細な情報が不明だったため、禹徳淳と曹道先は蔡家溝駅で見張りをして、ハルビンには安重根だけが残ることになりました。
そして、10月25日に「伊藤博文が翌日10月26日にやってくる」という情報を得たため、安重根は1人で伊藤博文暗殺を実行することになったのです。
安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細② ハルビン駅で銃撃・暗殺を実行
1909年10月26日、安重根は通訳の劉東夏を、ハルビン駅から500m離れた場所に用意した逃走用の馬車に待機させ、自分は午前7時にハルビン駅に現れました。
そして、ロシア大蔵大臣のウラジミール・ココツェフと満州・朝鮮問題について会談するために、午前9時に伊藤博文が外交団を連れてハルビン駅に到着しました。
伊藤博文とロシア蔵相との会談は、現地の治安の悪さから、列車内で行われる予定になっていて、ロシア蔵相はすでに到着し、ロシア側の列車内で待機していました。
そこに伊藤博文の列車が到着し、ロシア蔵相は日本側の列車に移動して伊藤博文に挨拶してから、ロシアの列車に宴席が用意してあると招待したため、伊藤博文はロシアの列車に移動。
伊藤博文は列車を降りて駅構内でロシア兵の閲兵を受け、さらにロシア要人らと握手をしていたところに、群衆に紛れて安重根が近づいてきます。
安重根は伊藤博文の顔を知りませんでしたが、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」という情報を得ていました。
そして、ロシア兵の隊列をかき分けて、10歩ほどの至近距離から「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」に向けて4発(3発という情報もあり)発射。
さらに「人違いだったら大変!」と思い、その後ろにいた威厳のある人物にも3発発射しました。
安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細③ 伊藤博文は30分後に死亡
3発が命中した伊藤博文は、その場で「3発もらった、誰だ!」と言って倒れこみます。
そして、周囲にいた満鉄総裁の中村是公やロシア兵に抱きかかえられて、列車内に運び込まれ、すぐに主治医らが止血処置を行いました。
受傷直後は意識があり、ブランデーを少し口に含むこともできましたが、少しずつ衰弱していき昏睡状態になって、受傷から約30分後に亡くなっています。
3発の銃弾のうち、2発が致命傷になったとのことです。
2発目:右肘関節から第九肋間に入り、胸腹を穿通して左季肋部に達する銃創
3発目:上腹部右側から射入し、左直腹筋に達する銃創
意識がある間、伊藤博文は「犯人は誰だ?」と尋ね、ロシア憲兵の報告で朝鮮人だと知ると、「そうか、馬鹿な奴だ」(「俺を撃ったりして馬鹿な奴だ」との説も)とつぶやいたそうです。
安重根の伊藤博文暗殺事件の詳細④ 安重根はすぐに逮捕&日本に身柄引き渡し
群衆の中で6発の銃弾を撃ち、日本の超重鎮を暗殺した安重根は、最初の4発(3発?)を撃った後、すぐに近くにいたロシア鉄道警察の署長代理ニキホルホ騎兵大尉に飛びかかられます。
安重根はそのような状態ながらも、次の3発を発射しますが、騎兵大尉や加勢したロシア兵に引き倒され、取り押さえられました。
この時、安重根は自殺を図ろうとしましたが、すでに銃は手から離れていて、身動きが取れない状態で、ロシア官憲に逮捕されています。
逮捕後に連行される時、安重根はロシア語で「韓国万歳(コレヤ!ウラー!)」と3回大声で叫んでいます。
朝鮮語ではなくロシア語を選んだ理由は、「世界の人々に最も伝わる言葉を選んだ」とのことですので、逮捕後も冷静な精神状態だったようです。
その後、ほかのメンバー(禹徳淳・曹道先・劉東夏ら)も逮捕されて、逮捕から2日後には日本領事館に移送され、旅順の日本の司法当局に引き渡されています。
安重根はなぜ伊藤博文を暗殺した?尋問で明らかになった15の動機
安重根が伊藤博文を暗殺した動機は、現在でも謎に包まれた部分がありますが、まずは安重根が供述した伊藤博文暗殺の動機を見ていきましょう。
以下の安重根の伊藤博文暗殺の動機は、安重根が取り調べの時に述べた15項目を現代語訳して、簡略化したものです。
10年前に伊藤の指揮で韓国王妃(閔妃)を殺害した
■第2の理由
5年前に伊藤は兵力で五ヵ条の条約を締結したが、それはすべて韓国に不利益をもたらすものだった
■第3の理由
3年前に伊藤が締結した十二ヵ条の条約は、韓国にとって軍隊上(軍事的に)不利益なものだった
■第4の理由
伊藤は韓国皇帝の廃位を図った
■第5の理由
韓国の兵隊は伊藤のために解散させられた
■第6の理由
条約の締結で韓国国民は起こり義兵が立ち上がったが、伊藤はその人たちを殺した
■第7の理由
韓国政治の権利を奪った
■第8の理由
韓国の学校の教科書を伊藤の指揮で焼却した
■第9の理由
韓国の人民に新聞の購読を禁じた
■第10の理由
充当できる金銭がないのに、勝手に韓国銀行券を発行した
■第11の理由
国債2300万円を発行し、それを勝手に官吏たちが分配したと聞き、土地を奪うためにも使ったと聞いた。これは韓国に不利益なことである
■第12の理由
伊藤は東洋の平和を撹乱した。日露戦争の当時から東洋平和維持のためと言いながら、反対の結果を見るに至っている
■第13の理由
韓国が望んでいないのに、伊藤は韓国保護のためと言って、韓国に不利な施政をしている
■第14の理由
42年前に孝明天皇(明治天皇の父)を伊藤が亡きものにした
■第15の理由
伊藤は韓国国民が憤慨しているのに、日本皇帝(天皇)や世界各国に「韓国は無事」と言って欺いている
この安重根の動機は、伊藤博文暗殺の4日後である1909年10月30日、関東都督府地方法院の溝渕孝雄検事が旅順からハルビンにやってきて、安重根に第1回の訊問を行った時の記録です。
この15個の動機からわかることは、伊藤博文をとにかく恨んでいるということですね。
日本政府に対する恨みというよりも、伊藤博文個人を恨んでいるという印象を受けます。
安重根の思想を解説① 明治天皇を敬愛&反日思想はない
安重根の暗殺動機をもっと詳しく分析するために、安重根の思想を詳しく見ていきましょう。
安重根は主に次の2つの思想を持っていました。
・東洋平和を願う
実は、安重根は反日活動家ではなかったのです。
安重根は、別に日本を嫌いというわけではありませんでした。明治天皇を敬愛していましたし、反日思想を持っているわけでもありませんでした。
安重根は反日思想の持ち主ではないことが分かる。彼は平和を望んだクリスチャンであり、日本という国や明治天皇に敬意と感謝の念を持っていた。
引用:【ニッポンの新常識】英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 K・ギルバート氏 (1/2ページ) – 政治・社会 – ZAKZAK
そもそも反日思想のようなものは持っておらず、安の書き残したものを読むと、日本の皇室に対して尊敬の念を抱いていたと思われます。
また、安重根は伊藤博文暗殺事件の裁判で、「大韓帝国の皇太子である李垠の教育に日本が尽力し、そのことは韓国国民が感謝している」と述べています。
さらに、前述の安重根が尋問で語った第15の理由で『伊藤は天皇に「韓国は無事」と欺いている』としていることからも、天皇を敬愛し、伊藤博文個人を恨んでいたとうかがえます。
第14の理由では、「孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だ」という旨のことを安重根は言っています。
孝明天皇は歴史上では病死とされています。若くして亡くなりましたし、江戸時代末期という激動の時代の天皇でしたので、その死についてはいろいろな噂がついて回っているのは事実です。
ただ、ポジション的に伊藤博文が暗殺したというのはほぼデマと思われます。伊藤博文が長州藩出身であることなどがそのデマを生み出したとされています。
安重根がこの「孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だ」という理由を動機の1つに挙げたのは、やはり伊藤博文個人を恨んでいた証拠と言えるでしょう。
つまり、安重根は明治天皇や皇室を敬愛していましたし、日本のことは嫌いではなかった。むしろ、好きだし感謝もしていたのです。
安重根の思想を解説② 東洋の平和を願う
出典:konest.com
安重根のもう1つの核となる思想は、東洋の平和です。安重根は東洋の平和を願い活動をしていました。
ノンフィクション作家の斎藤充功氏は、安重根の思想について、次のように述べています。
安重根は伊藤を排除すれば、東洋平和が復活すると思い込んでいたようです。しかし、安の『東洋平和論』という思想は、東洋から西洋勢力を排除することで真の東洋平和が到来し、そのためには韓国、中国、日本の3国が手を結ぶべきとするものでした。
また、次のような論文もありました。
安重根の伊藤暗殺の真の意図は、東洋平和の実現であったことは日本でほとんど知られていない。彼が裁判のなかで、朝鮮の独立を侵す暴力的な日本の植民地支配を批判し、東洋平和のためには、日中韓が互いに独立国として対等な立場で協力することの必要性を訴えたことは、今日、重要な意義をもつ。
引用:日本の応答責任を果たすために東洋平和を願った安重根の実像を知る|李 洙任(Lee Soo im)†・牧野 英二††・田中 宏†††
安重根は、日本・大韓帝国・清の3国が手を結び、対等な立場となることで、東洋平和が訪れると考えていました。
安重根が処刑直前まで書いていた「東洋平和論」では、「白人の侵略に対抗するためには東洋人が団結しなければならない」とし、日露戦争で日本が勝利したことは称賛しています。
安重根に暗殺された伊藤博文の思想は韓国併合反対派
出典:ndl.go.jp
安重根に暗殺された伊藤博文の思想も確認しておきましょう。
日本の重鎮政治家である伊藤博文の思想は簡単に説明できるものではありませんので、ここでは朝鮮問題に関する思想を深堀していきます。
実は、伊藤博文は朝鮮人(韓国人)のことを意外と高く評価していました。新渡戸稲造の著書には伊藤博文の言葉として、次のことが書かれています。
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」
伊藤博文は朝鮮人のことを高く評価し、彼らは自分の国は自分たちで統治できるとして、保護国は現時点ではやむを得ないけれど、併合する必要はないと考えていました。
伊藤博文研究の第一人者の、京都大学の伊藤之雄教授は、「この時点で、伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでで、併合という考えには否定的だったことを裏付ける新たな史料だ」と注目しています。
これだけを見ると、伊藤博文は韓国・朝鮮の味方だったと言えるでしょう。
安重根が伊藤博文を暗殺した動機の疑問点
安重根と伊藤博文のそれぞれを思想を知ると、ある疑問がわいてくると思います。その疑問とは、安重根と伊藤博文は意外と思想が近いということです。
疑問点:安重根と伊藤博文は思想が近いはず…
2人の思想をまとめてみました。
・天皇を敬愛&日本は好き
・日本と朝鮮(大韓帝国)、清で手を結んで欧米に対抗
・大韓帝国は独立国であるべき
・韓国は併合すべきではない
・日韓清で欧米に対抗する
一方の伊藤博文も日清韓の連帯で西欧列強の侵略を防止するという思想を持っていた。実は2人は非常に近い考え方をしていたのです
伊藤博文と安重根は「日韓清で手を結んで欧米の侵略に対抗する」という思想で一致していました。
また、伊藤博文は日本政府内では珍しく、日韓併合に慎重な姿勢を見せていた。つまり、韓国寄りの考えを持っていた政治家です。
安重根としては伊藤博文を支援し、手を結ぶことはあっても、そんなに暗殺するような動機はないはずです。それなのに、なぜ安重根は伊藤博文を暗殺したのでしょうか?
安重根が伊藤博文を暗殺した動機を分析
分析:伊藤博文=悪という認識
安重根と伊藤博文の2人は、確かに思想的に一致する部分がたくさんありました。
しかし、安重根は伊藤博文に対して大きな誤解をしていたのです。
1905年から1909年まで、伊藤博文は韓国総督府の初代統監に就任しました。
1904年には第一次日韓条約、1905年には第二次日韓条約が結ばれ、韓国国内では国家存続の危機感が高まり、独立運動(義兵闘争)が活発化していきます。
そうすると、韓国の独立運動の矢面に伊藤博文が立つようになり、韓国国内では「伊藤博文=悪」と思われ始め、安重根もそのように考えるようになったと思われます。
いくら、伊藤博文が「日韓併合には反対だ!」と話していても、それが正確に伝わることもなく、安重根は伊藤博文個人に恨みを募らせていったのです。
という思考回路だったと思われます。
安は大日本帝国を代表する存在である伊藤を排除すれば、明治天皇の善意により、韓国は救われると考えた。
安重根は伊藤博文を暗殺した後は、「これで韓国は救われる。日本の協力で、韓国は独立できる」と供述していたことからも、安重根は伊藤博文だけを恨んでいました。
現在のようにインターネット・SNSが発達していたならともかく、当時の情報網で「すべて初代統監の伊藤博文が悪い」、「伊藤博文=悪」と朝鮮人が思い込んでも仕方ないかもしれません。
安重根の伊藤博文暗殺で日韓併合が実現
安重根は1909年10月26日に伊藤博文を暗殺しました。安重根としては、これで韓国は救われると考えましたが、現実は真逆の方向に走っていきました。
伊藤博文は日本の政治家の重鎮で日韓併合反対派でしたが、日韓併合反対の要人が韓国人に暗殺されたとなれば、日本の世論は完全に「日韓併合!」に傾きます。
そして、1910年8月29日に日韓併合が行われ、韓国は日本に組み込まれることになりました。
ちなみに、この日韓併合は日本が無理やり韓国が併合したと思っている人も多いですが、最初に併合を依頼してきたのは韓国側です。
安重根は韓国独立のために伊藤博文を暗殺しました。でも暗殺を決行したことで日韓併合への動きが加速化し、1年も経たないうちに日韓併合が行われてしまった…なんとも皮肉な話ですね。
安重根は伊藤博文暗殺事件の犯人ではない?① 複数犯人説
伊藤博文暗殺事件は、安重根が犯人であるとされています。
これは現場での目撃者がいて、安重根が現場で拳銃を持っていたため、安重根が暗殺犯であることは間違いないでしょう。
しかし、安重根以外にも犯人がいて、組織的な犯行だったという説もあるのです。
銃撃は上からだった可能性あり
安重根はハルビン駅構内で、伊藤博文から10歩程度の至近距離で発砲しました。つまり、ほぼ同じ高さから伊藤博文に発砲したことになります。
しかし、伊藤博文は2階から撃たれた可能性があるんです。
安重根が伊藤博文を暗殺した現場にいた室田義文が、事件から30年以上経って逝去した後に発表された「室田義文翁譚」には、次のことが書かれていました。
・伊藤博文の体内に残っていた弾丸は、フランス製のカービン銃の弾丸だった。
・射入部は下向きなので、上から(2階から)撃たれた
・狙撃手は少なくとも2名であった
安重根が使った銃はブローニング7連発拳銃で、フランス製のカービン銃とは弾丸が異なります。
伊藤博文の体内に、安重根の銃とは違う弾丸が残っていたら、安重根以外にも誰かが伊藤博文を銃撃したことになります。
また、2階の食堂から撃ったと思われるような銃撃痕もありました。
事件の記録や解剖の所見などによれば、伊藤の体内から三発の銃弾が見つかっている。そのうち一発は拳銃弾ではなく小銃弾であり、体内への射入角が上方からのものである。安以外の協力者がいた可能性がある。
安重根には1909年1月1日に指を切って「断指同盟」を結成した12人の同志がいますし、協力者も多数いたはずですから、ほかに共犯者がいてもおかしくはありません。
安重根は伊藤博文暗殺事件の犯人ではない?② 黒幕が他にいた?
安重根は韓国独立を求めて、個人的に伊藤博文を暗殺しました。仲間はいましたが、組織的な犯行ではなく、数人の仲間が集まっての犯行とされています。
しかし、この伊藤博文暗殺事件は組織的な犯行で、安重根のバックには黒幕がいるとも言われています。
実際、伊藤博文とハルビン駅で会談する予定だったロシアのココツェフ蔵相は、事件当日に駐日ロシア大使に次のような電報を送っています。
陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った 3 人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという
「明らかに組織的なもの」と現場にいた要人が考えたなら、その可能性は十分にあるでしょう。事件当時は、キリスト教系の秘密結社とアメリカの陰謀説が噂されています。
ただ、日本・韓国・ロシア・北満州を巻き込む国際問題・外交問題に発展する可能性があったため、真犯人探しは積極的には行われませんでした。
安重根の生い立ち・経歴① 教育熱心な家庭に生まれる
安重根の生い立ち・経歴を見ていきましょう。
安重根は、現在の北朝鮮領の両班の家で三男一女の長男として生まれました。
両班とは官僚機構を担った支配階級の身分のことで、士大夫とほぼ同じ階級・王族の次の身分になりますので、安重根の実家は良家の大地主で、地元の名家でした。
当時の朝鮮半島では実名を使わない習慣があったため、安重根は通常は「安應七」と名乗っていて、安重根と名乗るようになったのは、暗殺事件直前のことでした。
安重根の祖父は教育熱心で、漢文学校・普通学校で学びましたが、14歳の時に祖父が亡くなると、学校に行かなくなります。
両親や教師の説得・叱責で学校に戻りましたが、勉強には力を入れず、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好むタイプになりました。いわゆる「ドラ息子」です。
安重根の生い立ち・経歴② 17歳でキリスト教徒に
安重根は1894年に16歳で結婚します。
同年に東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり、安重根は父親と一緒に自警団を作って東学党・農民軍を撃退します。この時に、重傷を負いました。
その後、えん罪で賊の汚名を着せられてしまいますが、フランス人宣教師の司祭にかくまわれます。
これをきっかけに安重根はキリスト教の洗礼を受けて(父親はもともとクリスチャン)、洗礼名を「トマ(トマス)」にしています。
安重根の生い立ち・経歴③ 1904年から愛国啓蒙運動に没頭
1904年(25歳の頃)に日露戦争が勃発し、安重根は日本とロシアのどちらが勝っても、韓国は属国になると悲観し、愛国啓蒙運動に携わっていくようになります。
1906年には、愛国啓蒙教育をするための学校を私財を投げうって開校。
さらに日本に抵抗するための義兵闘争にも加わって、朝鮮北部で日本軍と戦いますが、次第に押され、1907年には間島からロシアのウラジオストクに渡って抵抗活動を続けていました。
ウラジオストクを拠点に義兵闘争を続け、運命の1909年10月26日を迎えるのです。
安重根は韓国の英雄
安重根は韓国では英雄として扱われています。反日の象徴で、憎き日本の政治家を暗殺し、抗日運動の先頭に立った存在とされているんです。
韓国では「反日」が国是なので、日本の重要人物を暗殺した安重根は英雄とされる
引用:【ニッポンの新常識】英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 K・ギルバート氏 (1/2ページ) – 政治・社会 – ZAKZAK
韓国では、安重根を次のように呼ぶこともあります。
・大韓義軍参謀中将
・特派独立軍司令官
・将軍
また、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名は「安重根」ですし、テコンドーの型にも安重根の名前を用いたものがあります。
サッカーの日韓戦では、安重根の横断幕が掲げられたり、韓国のテレビの中でも抗日・反日の象徴として扱われています。
日本でも韓国でも、生前の安重根は平和を望んだクリスチャンであり、日本が好きで、天皇陛下を尊敬していたということはあまり知られていません。
日韓問わず安重根を「反日の象徴」として捉えている人は、史実をきちんと調べていないと言えるでしょう。
安重根は伊藤博文暗殺事件により死刑判決
死刑判決
安重根は1909年10月26日にハルビン駅構内でロシアの官憲に逮捕され、2日後には日本領事館に移送、それから旅順に移送されました。
そして旅順の関東都督府地方法院で裁判が行われ、1909年11月13日に予審、1910年2月7日に第1回公判が開かれ、5回目の公判で最終弁論、2月14日に有罪判決で死刑が宣告されています。
安重根は上訴して、さらに政治的な主張を述べようとしましたが、弁護士が「朝鮮の志士が死を恐れるために控訴したと思われる」と諭したため、控訴せずに刑が確定しています。
安重根は「獄中記」を残す
死刑確定後は自伝である「獄中記」を書き進め、弟らと面会をしました。
「獄中記」を書き終えた後は、次なる著作である「東洋平和論」も書き始めましたが、序文を書き終えた時点で死刑執行となったため、未完のままで終わっています。
安重根の最期の言葉
安重根に死刑を言い渡した判事は、死刑執行までには少なくとも2~3か月はあると話したようですが、日本政府は事件の重大さを鑑みて、早期の死刑執行を命じました。
そのため、死刑判決が出たのが1910年2月14日、死刑執行は1か月半後の3月26日でした。
3月26日に死刑が執行されたのは、伊藤博文の月命日だからです。伊藤博文の月命日、さらに亡くなった時間に合わせて、死刑が執行されました。
死刑執行人が遺言の有無を尋ねたところ、「特にないが、臨検する諸君が東洋平和のために御尽力されることを願う」というのが最期の言葉だったそうです。
安重根の死因は絞首刑(縊死・脳虚血)
安重根の死因は縊死、つまり首つりです。安重根の死刑は絞首刑で行われました。
絞首刑(首吊り)というと、窒息して死んでしまうと思うかもしれませんが、実は違います。
首を吊ると、左右頸動脈と左右椎骨動脈が完全に圧塞されたことで、脳への血流が遮断され、脳死になって、それから心臓も止まることで死に至ります。
また、首のロープの角度によっては、首吊りの瞬間に脊椎骨が骨折して、延髄を損傷し、死に至ることもあるようです。
安重根は死刑執行から15分後に絶命したとのことです。
安重根の子孫は現在アメリカ人
安重根には3人の子供がいましたが、子孫はアメリカに移住し、アメリカ人になっています。
まず、3人の子供から見ていきましょう。
・安文生:長男(1905~1917年)
・安俊生:次男(1907年~1951年)
次男の安俊生は、1939年10月、韓国ソウルにある伊藤博文をまつる博文寺で伊藤博文の息子と面会しています。
「このとき、安俊生は『父の罪を私が贖罪して、全力で報国の最善をつくしたい』と謝罪し、2人は和解しているんです。韓国側は強制的に謝罪させられたと主張していますが、謝ったのは間違いない事実です」(黒田氏)
息子さん同士は和解し、安俊生は父親の罪を謝罪しました。
ここまでだと良い話なのですが、安重根は韓国の英雄。その息子が伊藤博文の息子に謝るなんて、韓国人にとっては許せないことだったようです。
安俊生は上海に渡り、薬局経営に成功しますが、韓国独立運動家から「韓奸」とみなされ、「アヘンをやっている」と噓の密告をされ、死刑にするよう依頼されるなど命の危機がありました。
しかし、上海当局がアヘン等の事実はないとして依頼を無視したため、安俊生は命拾いします。
そのような状況だったため、終戦後もなかなか韓国に帰ることができず、帰った後も英雄・安重根の子供なのに、ひっそりと暮らすことになったようです。
そして、朝鮮戦争で釜山に避難する途中の船の中で病死しました。
その子供(安重根の孫)はアメリカに渡り、中国系アメリカ人の女性と結婚して息子(安重根のひ孫)を出産しています。
安重根のひ孫は、トニー・アン・ジュニアという名前のアメリカ人で、2022年で59歳の年齢になっています。韓国語はほとんど話せず、アメリカの通信企業AT&Tで働いているそうです。
現在でも韓国の英雄で反日のシンボルとして扱われる安重根。
しかし息子は、伊藤博文の息子に謝ったために「韓奸」とされて韓国に帰りづらい状況になり、孫はアメリカに渡って、ひ孫はアメリカ人になり、韓国語はほとんど話せなくなっている・・・。
国の英雄の子供は「韓奸」。子孫はアメリカ人になっているなんて、なんとも皮肉な話ですね。
長女は親日派として見られず
長女の安賢生は安俊生と一緒に博文寺を参拝し、上海にも渡っていますが、なぜか安俊生とは違って殺害指令は出ておらず、親日派のレッテルも貼られずに済んでいます。
帰国後は大邱カトリック大学で教職に就いて、1960年に韓国国内で亡くなっています。
安重根のまとめ
安重根が起こした伊藤博文暗殺事件の詳細やなぜ暗殺したのか?その動機・思想や生い立ち、韓国での英雄扱いと最期の言葉や死因、子孫の現在をまとめました。
歴史に詳しくない方でも伊藤博文が暗殺されたことは知られていますが、事件の経緯や、安重根の思想や日本への思いを知ると、また違った事件に見えてきます。
歴史に「If」はありませんが、安重根が伊藤博文を暗殺していなかったら、韓国併合はなかったのかもしれません。
そう思うと、安重根は日本と韓国の歴史を大きく変えた人物であると言えるでしょう。