2020年10月4日に新型コロナウイルスの合併症で逝去された世界的ファッションデザイナーの高田賢三さんの偉大な功績が再注目されています。
ここでは高田賢三さんの経歴、姫路の実家や家族、代表作、資産やパートナーや結婚、子供、テレビで紹介され話題になった自宅、死因などについてまとめました。
この記事の目次
高田賢三のプロフィール
高田賢三のプロフィール
生年月日:1939年2月27日
没年月日:2020年10月4日(享年81歳)
出身地 :兵庫県姫路市
世界で高い評価を受ける日本人デザイナー・高田賢三さんが2020年10月4日に新型コロナウイルスの合併症により81歳で逝去されました。
高田賢三さんは、日本人デザイナーとして初めてフランス・パリに拠点を置いて活躍し成功された日本のファッション界が誇る偉大な方です。ここではこの高田賢三さんについてまとめます。
高田賢三の経歴
高田賢三さんは兵庫県姫路市の出身で、幼少期は内気で大人しい性格だったそうで、年の近い姉2人と遊ぶ事が多かったそうです。
高田賢三さんは、その姉2人がよく読んでいた女性誌「それいゆ」や「ひまわり」などを読むうちにファッションに興味を持つようになり、画家でファッションデザイナーの中原淳一さんのイラストを真似て描いてよく遊んでいたのだとか。
また、小学校2年生の頃には姉に連れられて姫路市公会堂で公演された「宝塚歌劇」を観て「こんなに綺麗なものがあるのか」と衝撃を受けたのだそうです。
その後、姉が洋裁学校へと通うようになり、その影響でファッションの専門雑誌などに触れるうちに「こんな世界があるのか」とより興味を抱くようになり、次第にファッションの世界を志すようになったのだそうです。
高田賢三さんは、地元の「姫路市立野里小学校」、「姫路市立広嶺中学校」を経て、進学校の「兵庫県立姫路西高等学校」へ、高校時代は勉強ばかりしていて楽しい青春の記憶はなかったと語られています。
高田賢三さんは高校卒業後、本当は洋裁学校への進学を希望していたのですが、当時はまだ洋裁学校の男子生徒の募集がなく、仕方がなく「神戸市外国語大学2部英米文学科」へと進学されたそうです。
当時、父親が糖尿病に倒れていて一家は経済的に厳しく、高田賢三さんは夜間は大学へ通い、昼間は神戸市の貿易会社で働くという大変な毎日を送ったそうです。
しかし、そんな生活がスタートしてすぐの6月、高田賢三さんは通勤中の電車の中吊り広告に、「文化服装学院が男子生徒を初募集」という文字を見つけます。高田賢三さんは「どうしてもこの学校に行きたい」と両親に相談したそうですが、経済的な理由もあり猛反対されてしまいます。
それでも夢を諦められない高田賢三さんは、すぐに貿易会社を辞めると、大学の夏休みに豆腐屋でアルバイトをしてお金を貯め、その18歳の秋に鈍行列車に乗って上京します。
単身上京した高田賢三さんは、まずは東京の予備校に通っていた高校時代の親友の家に転がり込み、その一週間後には、都電若松町駅近くにあった看板店が住み込みの従業員を募集しているのを見つけて働き始めました。
高田賢三さんは、昼間は看板屋で働きながら、通信教育で挿絵の勉強をし、週2回は渋谷区神泉の「隅田房子スタイル画研究所」へと通いデザインを勉強されたそうです。
そして、高田賢三さんの熱意に打たれた母は、ついに「文化服飾学院」への入学を許してくれたそうです。そんな母は何と、毎年8000円(当時の価値でかなりの金額)も仕送りをしてくれたのだそうで、高田賢三さんの夢を応援してくれていました。
1958年に「文化服飾学院」へと入学した高田賢三さんは、その2年後の1960年の秋、若手デザイナーの登竜門である「装苑賞」で見事グランプリを獲得。これをきっかけにして雑誌の挿絵の依頼が舞い込むようになりプロのデザイナーとしての仕事をスタートさせています。
1961年、「文化服飾学院」を卒業した高田賢三さんは、浅草橋のアパレル会社に就職します。初任給は1万5千円だったそうです。
そして、1964年11月、高田賢三さんは職場に休職願いを出すと、憧れだったというフランスのパリへと旅立ちました。高田賢三さんはパリでデザインの仕事をしたいと思い、仕事を探しますが、どこで聞いても「パリで日本人はデザインの仕事はできない」と断られてしまったそうです。
しかし、帰国予定が迫った1965年5月、高田賢三さんはどうせ帰国するのならとファッション画を何枚か描き、大好きだったというデザイナーのルイ・フェローのブティックへ持ち込んだのだそうです。
するとなんと、その店のマダムがそのデザイン画を気に入り、1枚25フランで買い取ってくれたのだとか。それで勇気を得た高田賢三さんは、その翌日にファッション雑誌「ELLE」にデザイン画を持っていくと、なんと今度は1枚50フランの値がつきます。
その10日後には現地のワンピースメーカーと月給1000フランでデザイナー契約を結び、滞在許可証と労働許可証を獲得。こうして高田賢三さんはフランスを拠点にしてのデザイナー活動の足掛かりを自らの力だけで掴み取ったのでした。
高田賢三さんはその後フランスで売れっ子となり、1970年4月に独立してパリのギャルリ・ヴィヴィエンヌ(ルーブル美術館側のアーケード街)に「ジャングル・ジャップ(後にKENZOに改称)」というブティックをオープンさせます。
高田賢三さんは自身のブランド「KENZO」で、日本文化と西洋の文化を巧みに取り入れた新たなコレクションを展開し、これがパリっ子からの絶大な指示を受け新たなトレンドを生み出しました。その年には高田賢三さんの作品がファッション雑誌「ELLE」の表紙を飾るほどでした。
それから、高田賢三さんはフランス・パリを拠点に売れっ子デザイナーとして活動を続け、高い評価を得続けましたが、経営者としての才覚はなかったのか、立ち上げた会社の経営は思わしくなかったそうです。
そして、高田賢三さんは1度も活動拠点を日本に戻す事なく、2020年10月4日にフランス・パリで81歳の生涯を閉じています。
2020年10月9日には、パリのペール・ラシェーズ墓地にて追悼式が執り行われました。この式には高名なランジェリーデザイナーのシャンタル・トーマスさんも参列されました。
高田賢三の実家は兵庫県姫路市
経歴でも触れていますが、高田賢三さんの実家は兵庫県姫路市です。姫路市のファッションデザインを志す人々の間では現在も高田賢三さんは「姫路の生んだ宝」、「憧れの存在」として尊敬を集めています。
高田賢三さんも実家のある姫路市を深く愛しており、1989年には、姫路市制100周年事業として開催された「姫路百祭シロトピア」にて、姫路城天守閣をバックにしたファッションショーを開催し、世界的に有名なデザイナーとなってからも故郷を愛し恩返しをしようとする姿は多くの姫路市民に感動を与えました。
また、2000年には出身高校の姫路西高を訪れ、有志の生徒が企画したファッションショーに登場し、後輩達へのメッセージを贈りました。
高田賢三の代表作
高田賢三さんの代表作のブランドとしては、1983年に発表された「KENZO HOMME」コレクションや、1986年に発表された「KENZO JUNGLE」、「KENZO JEANS」などがあります。
1987年からは子供服ブランドの「KENZO ENFANT」や、香水ブランドの「Kenzo de Kenzo」を発表しています。
高田賢三の代表作の画像
高田賢三さんは「KENZO」のブランドを1992年に売却しているため、現在の「KENZO」のデザインは高田賢三さん自身がデザインした作品ではありません。ここでは高田賢三さん本人がデザインしたかつての代表作の画像を何枚か紹介します。
上画像はいずれも、1970年代から活躍した伝説的モデル山口小夜子さんの着用する高田賢三さんの代表作です。
高田賢三の家族① 7人兄弟の家族で生まれ育つ
高田賢三さんは、兄2人、姉2人、弟2人の7人兄弟と両親の9人の大家族で生まれ育ちました。
高田賢三さんが姉の影響を受けてファッションに興味を持った事はすでに触れましたが、その他に兄弟の情報はほとんど明らかにされていません。
高田賢三さんは両親については多少話されていたのでまとめていきます。
高田賢三はさんの父は、元々は電力会社に勤めていたのを脱サラして待合茶屋を経営し、部屋は15ほど、庭には池矢は慣れもあり、従業員も雇って成功を収めていたそうです。
戦争の空襲で家は焼かれてしまいますが、父は戦後、庭に埋めておいた家財を売って家を買い、数年後には梅ケ枝町の花街で「浪花楼」という待合茶屋を経営しました。この父は高田賢三さんが高校生の頃に糖尿病に倒れ、高田賢三さんが上京した1958年頃に亡くなっています。
高田賢三さんの母は、高田賢三さんがファッションデザイナーを目指すのを応援し、学生時代には毎月、少なからぬ金額を仕送りし、その後渡仏した高田賢三さんが自身のブランドを立ち上げる際にはその資金として100万円もの大金を貸すなどしています。
その母は高田賢三さんがフランスで成功を収めた後、1991年頃に亡くなっています。
高田賢三の家族② パートナーはフランス人貴族の男性・グザビエ・ド・カステラ
高田賢三さんは37歳の頃に画家のピカソの末娘のパロマ・ピカソの誕生日会に招待され、そこで生涯のパートナーとなるフランス人貴族出身の男性、グザビエ・ド・カステラという人物と出会っています。
この方は「KENZO」のブランド立ち上げにも資金援助をしており、株式会社化して株を持ち合うなど、高田賢三さんのパトロンであり仕事上のパートナーでもありました。
また、このグザビエ・ド・カステラ氏は建築家としても活躍されていた方で、2人の新居としてパリのバスティーユに総額25億円をかけて日本の建築文化を取り入れた1207平米もの大邸宅を建築しています。
しかし、この大邸宅の完成を待たずに、グザビエ・ド・カステラ氏は37歳の若さで亡くなっています。以降、高田賢三さんはパートナーを持たれませんでした。
高田賢三は結婚しておらず子供もいない
高田賢三さんは同性愛者である事をカミングアウトしており、パートナーは上で紹介したフランス人男性のグザビエ・ド・カステラ氏ただ1人でした。
したがって、高田賢三さんは生涯結婚はされておらず、当然ながら子供もいません。
高田賢三の資産
高田賢三の住んだ大邸宅の中庭
高田賢三さんの資産について詳細はわかっていませんが、世界的に活躍されていただけあり、その所有資産額の変動はかなりスケールの大きなものだったようです。
高田賢三さんは服飾デザインの最先端地であるフランス・パリで高い評価を受けたデザイナーであり、その収入額も莫大なものでしたが、経済感覚が乏しく、入ってきたお金は全て自身の表現や芸術作品の購入などに使ってしまっていたようです。
1993年には、経営難に陥った自身のブランドをフランスのブランドメーカー「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン」に売却。1999年には「KENZO」のデザイナーの立場からも引退を表明します。
2003年頃にはデザイナーとして復帰し、2004年にはアテネオリンピックの式典・移動用ユニフォームのデザインを手がけ、新事業も展開しますが、これに失敗し自己破産しています。2009年にはパリの大邸宅も売却しています。
高田賢三のフランス・パリの自宅が話題
高田賢三さんは、1989年から2009年頃までは、前述したパリ・バスティーユの大邸宅に住まわれていましたが、この大邸宅を売却後はパリ・サンジェルマンの高級アパートの2フロアを自宅とされていました。
2020年3月に放送された「ぴったんこカンカン」では、この高田賢三さんの自宅が紹介され、そのあまりに洗練されたセンスが話題になりました。
ぴったんこカンカンで観た高田賢三さんの家 あつまれどうぶつの森めちゃくちゃ極めた人みたいな素晴らしさとセンス😧 pic.twitter.com/eM4RzwNfwC
— ✨ニルヲ✨ (@niruwo) March 6, 2020
高田賢三の死因は新型コロナウイルス(COVID-19)の合併症
高田賢三さんは2020年10月4日、81歳で逝去されました。
高田賢三さんの死因は新型コロナウイルス(COVID-19)の合併症によるものと発表されています。
報道によれば、高田賢三さんは2020年9月に新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)に感染し、パリ郊外のホスピタルで闘病していたという事でした。
2020年3月に「ぴったんこカンカン」に出演された時には、とても若々しく元気な様子を見せていたため、ショックを受けた方も多かったようです。
まとめ
今回は、日本人として初めてフランス・パリを拠点にして大成功を収めたファッションデザイナーの高田賢三さんについてまとめてみました。
高田賢三さんは、なんのツテもなく若くして渡仏し、自分の才能だけで本場パリでの成功を収めた偉大なデザイナーでした。
パリを拠点にして長年デザイナーとして最先端で活躍し、プライベートでは同性愛者である事をカミングアウトしてフランス人男性のグザビエ・ド・カステラ氏を生涯のパートナーとして過ごし、彼の死後は新たなパートナーを選ぶ事なく独り身を貫かれました。
80代を迎えてからも、その洗練されたセンスは多くの人々を惹きつけ続けており2020年1月には新たにライフスタイルブランド「K3」を立ち上げるなど、今後の活躍が期待されていましたが、2020年10月4日に、パリで新型コロナウイルスに感染しその合併症によって81歳で逝去され、その死は多くの人々に惜しまれています。
高田賢三さんのご冥福をお祈りします。