坂田塾を開いて多くのトッププロゴルファーを輩出し、漫画原作でゴルフをより身近なスポーツにしてきた坂田信弘さんが亡くなりました。
坂田信弘さんの若い頃からの経歴や坂田塾の閉鎖理由、結婚した嫁や子供などの家族や息子を殴った理由、死因と病気などをまとめました。
この記事の目次
坂田信弘はプロゴルファー&指導者&漫画原作者
坂田信弘
生年月日:1947年10月11日
没年月日:2024年7月22日
出身:熊本熊本市
身長:180cm
活動:プロゴルファー、ゴルフ指導者、漫画原作者
坂田信弘さんはプロゴルファーです。
ただ、プロゴルファーとしてはさほどパッとした成績を残していませんが、1990年からゴルフ漫画の「風の大地」の原作を務め大ヒットします。
そして、文筆業で得た資金で坂田ジュニアゴルフ塾を開校し、古閑美保さんや上田桃子さんなどのトッププロを輩出し、作家・レッスンプロとして才能を発揮しました。
坂田信弘の経歴①:若い頃は京大&自衛隊
坂田信弘さんは1947年に熊本県熊本市で生まれました。父親は和菓子職人をしていて、熊本に3店舗を展開していましたが、経理部長の使い込みなどで坂田信弘さんが中学2年生の時に倒産し、中学3年の時に両親と坂田信弘さん、妹3人で関西に夜逃げすることになりました。
夜逃げ先では高校に行かずに働こうと思っていましたが、母親に高校にだけは行ってほしいという願いで、尼崎北高校に進学します。
高校進学後はあまり学校に行かず、家計を助けるためにアルバイトをしていましたが、高校3年の7月に卒業後の進路を考えた時、担任に言われて全国模試を受けました。
最初は順位が付かないくらいの成績でしたが、中1の勉強からやり直すと、全国模試で300番くらいになりました。そして、京都大学文学部東洋史学科に進学します。
しかし、京都大学在学中に父親が脳溢血で急逝し、経済的な事情で大学を中退することになりました。プロゴルファーを目指しましたが、まずは体作りと家族への仕送りのために、22歳で自衛隊体育学校に特別体育課程学生として入隊します。
2年後に陸上自衛隊を満期除隊すると、プロゴルファーを本格的に目指すために、栃木県の鹿沼カントリークラブで研修生になり、翌1972年には愛知県の貞宝カントリー俱楽部に移籍、そして1975年に28歳でプロテストに合格しました。
京都大学から自衛隊(しかも自衛隊体育学校の特別体育課程学生)、そこからプロゴルファーなんてすごい経歴ですよね。
坂田信弘の経歴②:プロゴルファーとして
28歳でプロゴルファーになった坂田信弘さんは、最初は優勝争いに絡む成績を残していましたが、徐々に低迷していきます。
1978年9月から12月まではオーストラリアやニュージーランドに遠征しました。ただ、獲得賞金よりも遠征費がかさむようになり、借金を抱えるようになっていきます。
1988年1月下旬からアフリカサファリツアーに参戦し、ナイジェリアでイバダンオープンとナイジェリアオープンの2試合に参加しました。イバダンオープンはかなりコース状況が悪かったですが、イバダン在住の日本人の応援を受け、優勝を飾ります。2戦目のナイジェリアオープンは25位タイでした。
プロゴルファーとしてはこのイバダンオープンが最初で最後の優勝となり、2試合で日本円にして約50万円(1万ナイラ)を獲得しました。
坂田信弘さんは53歳までプロの試合に出場し続けましたが、生涯獲得賞金は276万円程度でした。プロゴルファーとしては坂田信弘さんは大成しなかったと言えるでしょう。
坂田信弘の経歴③:作家・漫画原作
坂田信弘さんは1975年にプロテストに合格したものの、プロゴルファーとしては遠征費ばかりかさむようになり、借金を約400万円を抱えるようになりました。
坂田さんが36歳の時(1984年)に、「週刊ゴルフダイジェスト」の編集長から特集記事を書くように依頼を受けます。おそらく、編集長が「京都大学中退」などの経歴を見て、興味を持ったのでしょう。
最初に書いたのは「宇部ペプシトーナメントの自戦記」でした。チラシの裏に鉛筆でサラサラっと書き編集者に渡したものが、「週刊ゴルフダイジェスト」に掲載されました。
この坂田さんが書いた記事は評判が良く、連載が決まりました。
「現役のプロと物書きの二刀流は例がなかった。プロならではの視点や洞察力があり、読み物としても面白かった。体の動きについても具体的な表現で分かりやすく、反響を呼びました」
引用:古閑美保、上田桃子ら女子トップ選手を育てた坂田信弘さん “文筆家”として軽く1億円以上稼ぐ「クラブとペンの二刀流」だった(2ページ目) | デイリー新潮
さすが現役プロゴルファーで、京都大学文学部入学という異色の経歴の持ち主です。プロとしての視点と京都大学の文才を持ち合わせている人は坂田信弘さん以外いませんから。
それ以降、マスターズの観戦記などを書くようになり、原稿料は1万円から3万円にアップして、プロゴルファーと作家の二刀流としての生活が始まります。
そして、1989年8月からは「風の大地」の漫画原作を担当し、連載がスタートしました。「風の大地」は人気漫画となり、1994年には小学館漫画賞を受賞し、1996年にはゴルフ特別功労賞を受賞しています。
「風の大地」以外にも「DAN DOH!!」や「奈緒子」などの漫画原作を担当したほか、ゴルフに関する著書も執筆しています。
坂田信弘の経歴④:坂田塾開校
坂田信弘さんは文筆業で大成功を収めます。プロゴルファーとしては年間10試合程度しか出場しませんでしたが、観戦取材は精力的に行い、漫画原作や観戦記などで1億円以上を稼いでいたとのこと。
そして、文筆業で得た資金で、子ども向けの坂田塾(坂田ジュニアゴルフ塾)を1993年に開校しました。
90年代初めには出場は年10試合に満たず、記者として観戦取材にあたっていた。文筆業で軽く1億円以上を稼ぎ、坂田塾は実現できた。
引用:古閑美保、上田桃子ら女子トップ選手を育てた坂田信弘さん “文筆家”として軽く1億円以上稼ぐ「クラブとペンの二刀流」だった(2ページ目) | デイリー新潮
坂田塾を開講したのは1994年のこと。熊本で講演をした時に会場の人から「世界に通用するプロを育てて」と頼まれ、マスターズ取材では熊本の財界の人と会い、1994年8月に坂田塾が熊本で始まりました。この坂田塾は坂田信弘さんが自衛隊時代に培ったスパルタ教育で厳しい指導をすることで有名でした。
毎日練習が行われる坂田塾の特徴は、徹底したスパルタ指導。頭ではなく、体に基礎を叩き込む。その内容はプレーのみならず、挨拶、礼儀といったものも及ぶ。18歳までは、茶髪、ピアスはもちろん、携帯電話や男女交際も禁止。破れば、即退塾。
ただ、塾生には金銭的な負担は一切かけていません。レッスン料は無料だし、練習場の使用料や遠征費なども坂田塾が負担しています。
この坂田塾からはトッププロが多数出ています。
・青山加織
・上田桃子
・古閑美保
・宅島美香
・豊永志帆
・中山三奈
・服部真夕
・安田祐香
・笠りつこ
坂田塾はプロゴルファーを目指す親子から人気となり、一時期は全国6校に広がり、坂田信弘は名指導者として有名になりました。
2008年には大手前大学ゴルフ部監督に創部と同時に就任して、2年目で女子チームを全国大会優勝に導きました。
坂田信弘が坂田塾を閉鎖した理由
5校の閉鎖理由
坂田信弘さんが開いた坂田塾は全国6校に広がり、300人以上の卒業生がいます。
この坂田塾は塾生の金銭的負担はなく、すべて無料で質の高いゴルフレッスンを受けられるとあって非常に人気が高く、さらに坂田塾があるところは地域のゴルフ活性化につながるため、坂田塾は一時期、全国87地域から招致されていました。
しかし、2023年に坂田塾は全国6校すべてが閉鎖されました。
まず、閉鎖が決まったのは神戸校以外の5校(熊本、札幌、福岡、東海、船橋)です。2010年で新規募集を停止し、塾生が卒業すると同時に閉校となりました。
この全国5校の閉校理由は2つです。
・コーチの高齢化
・提携練習場の閉鎖
コーチが高齢化することで体力がなくなり、指導に厳しさがなくなるため、今までのような指導ができなくなったようです。また、提携していた練習場が閉鎖されたことで、運営・経営費用が負担になってきたとのこと。
「固定資産税の負担が重く、経営が本当に大変なんだ。それで練習場が1カ所でも閉鎖されれば、その分、他の練習場にシワ寄せがいくが、無料だから打席数を増やしてもらうわけにはいかない」(坂田塾長)
やはり塾生の金銭的な負担はゼロ。その負担は坂田塾が被るという運営スタイルは、時代の流れと共に無理が生じてきたのかもしれません。
神戸校の閉鎖理由
坂田塾は6校のうち5校は2010年に閉校することが決まりましたが、神戸校はまだ新規の塾生を受け入れ、存続していました。
しかし、2023年4月6日に、突然坂田塾の神戸校が閉鎖されることが発表されたのです。
このたび、誠に勝手ながら坂田ジュニアゴルフ塾は2023年4月6日をもちまして、閉塾することとなりました。
心よりお詫び申し上げます。
事前アナウンスがなく、閉校する日に突然の閉校アナウンスがあるとなると、何か事情があるようです。坂田塾の閉校のお知らせには、閉校理由は次のように書かれていました。
閉塾に至った経緯は、指導不足を原因としたトラブルが発生し、お世話になっている方々にご迷惑をかけてしまった事によるものです。
「指導不足を原因としたトラブル」の詳細はわかりません。ただ、閉校を決断しなければならないほどのトラブルとなれば、取り返しがつかないような大きなトラブルだった可能性があります。
坂田信弘の結婚や家族(嫁・子供)
出典:47news.jp
坂田信弘さんは結婚していて、子供が2人います。
・夫:坂田信弘
・妻
・長男:坂田雅樹
・長女:坂田寛子
4人家族ですね。
坂田信弘さんが嫁と出会ったのは、自衛隊を除隊してプロゴルファーを目指して研修生をやっていた時です。愛知県の貞宝カントリー倶楽部で研修生をやっている時に知り合いました。そして、プロテストに合格してすぐに結婚しています。
女房とは名古屋で知り合いました。愛知の貞宝カントリーで研修生をやっていたときに知り合い、『プロになったら結婚してくれ』と頼み、プロになってすぐに結婚したのです
引用:「夜逃げ、京大中退、賭けゴルフで生活…」育てたプロゴルファーは100名以上、《名伯楽》坂田信弘の壮絶すぎる人生(現代ビジネス) – Yahoo!ニュース
ということは、28歳で結婚したんですね。ただ、前述のように坂田信弘さんはプロゴルファーとしては大成しませんでした。
獲得賞金よりも遠征費の方がかかってしまう状態でしたが、それでも坂田さんは幼少期の経験から、奥様には働かずに家にいて子供たちの面倒を見てほしいと望んでいて、家計は厳しかったようです。
実際、当時の坂田さんの家賃は「1万円」だったとのこと。
当時、私は家賃1万円の雇用促進住宅に住んでいましたが、たまたま家に戻ってきていて、そのことを聞くと、長男を玄関に座らせました。
引用:「息子を殴ったことが人生最大の後悔です」ゴルフ界の名伯楽・坂田信弘が生前語った、プロ110名の指導理念につながった《教訓》(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(3/5)
プロゴルファーが家賃1万円の雇用促進住宅に住んでいるなんて、とても驚きですよね。このような経済的な事情もあり、坂田信弘さんは記事執筆依頼を受けるようになったのかもしれません。
坂田信弘は息子を殴ったことを後悔していた
坂田信弘さんの息子の雅樹さんもプロゴルファーです。坂田塾で指導したり、アジアツアーに参戦したりしていて、現在は主にレッスンプロとして活動しているようです。
この息子の雅樹さんがプロゴルファーを目指した理由がとても切ないものでした。息子の雅樹さんが小学4年生、長女の寛子さんが小学1年生の頃、坂田信弘さんは記事を書くための観戦取材や自分の試合でほとんど家に帰ることはありませんでした。
そんな中、兄妹2人が父親に家に帰ってきてもらうために立てた作戦が「プロゴルファーになる」宣言です。
しかし二人で相談したその結論が、
「僕がプロゴルファーになりたいと言えば、お父さんは僕にゴルフを教えるために、今よりは帰ってきてくれるかも知れん」だった。
しかし、それでも坂田信弘さんは生活を変えることなく、家にはほとんど帰ってきませんでした。プロゴルファーになりたいと言った息子を放ったらかしにしたのです。それだけではなく、息子が中学1年生の時に出場した九州ジュニア選手権では期待した成績を残すことができず、息子を叱りつけて殴ったのです。
「父として、プロゴルファーとしてのお願いだ。ゴルフを辞めてくれ」
その瞬問、雅樹はボトボトと涙を流した。私は男が泣くのかと叫んで、丸刈りの雅樹の頭を拳骨で殴った。
3発、4発。雅樹は声を上げて泣いた。
これは父親として最低のエピソードですが、嫁と息子・娘が許してくれたようで、坂田信弘さんはこのことを悔いているそうです。
成績で長男を殴ってしまったこと。あれは私の悔いです。
引用:「息子を殴ったことが人生最大の後悔です」ゴルフ界の名伯楽・坂田信弘が生前語った、プロ110名の指導理念につながった《教訓》(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(5/5)
それにしても、このような父親を許すなんて、坂田信弘さんのご家族はメチャクチャ人間ができているんですね。
坂田信弘の現在:2024年7月に死去
坂田信弘さんは2024年7月22日に76歳で亡くなりました。
この坂田信弘さんの死去は、息子の坂田雅樹さんのインスタグラムで明かされています。
これだけ有名な方でしたが、葬儀は家族葬で執り行われたとのことです。7月22日に亡くなられて25日に発表でしたから、葬儀を済ませてから発表したものと思われます。
平成から令和のゴルフ界に大きな影響を与えた坂田信弘プロが、7月22日0時33分に永眠した。
引用:坂田信弘氏が永眠 京都大学→自衛隊→プロゴルファー→作家→指導者と、早足で駆け抜けた多才すぎる人生 – ゴルフ総合サイト ALBA Net
ご自宅で奥様などに看取られて亡くなったとのことです。
坂田信弘の死因は病気?
坂田信弘さんの死因は本人の意向で明らかにされていません。ただ、病気療養中だったことはわかっています。
プロゴルファーでジュニア育成にも尽力した坂田信弘さんが22日、死去した。76歳だった。病気療養中だったという。
この病気が坂田信弘さんの直接的な死因かどうかはわかっていませんが、おそらく病気が原因と推測することができます。
坂田信弘さんの訃報を聞いて、坂田塾卒業生の上田桃子プロや笠りつ子プロなどが追悼コメントを出していました。
坂田信弘のまとめ
坂田信弘さんのプロフィールや若い頃からの経歴、坂田塾の閉鎖理由や結婚や家族(嫁・子ども)と息子との過去、死去と死因などをまとめました。坂田信弘さんのご冥福をお祈りします。