丘崎誠人は「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の犯人です。丘崎誠人は犯行動機は自身や家族への差別への恨みだと主張し注目されました。
この記事では丘崎誠人の起こした事件の概要、自宅の実家のみすぼらしさや、両親の特殊な出自や慰み者にされたとされる姉、事件後の現在などについてまとめました。
この記事の目次
丘崎誠人は奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の犯人
出典:https://marebit.sakura.ne.jp/
丘崎誠人は、1997年5月4日に奈良県添上郡月ヶ瀬村(現在の奈良県奈良市月ヶ瀬)で発生した「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の犯人です。
丘崎誠人は事件のあった月ヶ瀬村の嵩地集落の住人で当時は25歳の無職でした。丘崎誠人は村に住む顔見知りの当時13歳の中学2年生・浦久保充代さんを殺害しその後逮捕されています。
この丘崎誠人の起こした「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」は、旧習を残した村での差別問題が犯行の要因となったと報道され注目された事件でもあります。
今回はこの「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の犯人・丘崎誠人についてみていきます。
丘崎誠人の起こした奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要
最初に丘崎誠人の起こした「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の概要を見ていきます。
1997年5月4日の午後、奈良県月ヶ瀬村の中学2年生当時13歳だった浦久保充代さんが卓球大会からの帰り道に行方不明になりました。
同日20時頃、「夕食の時間になっても娘が帰らない」と浦久保充代さんの母親の博子さん(当時42歳)が学校に連絡した事で騒動となり、警察、村民、学校関係者による捜索が開始されました。
その後、浦久保充代さんが登下校時に使用していた村道脇の川で、浦久保充代さんが履いていた靴が発見され、付近の道路上に自動車のタイヤのスリップ痕とガードレールに付着した血痕が発見され、警察は浦久保充代さんが事件に巻き込まれた可能性が高いとして捜査を開始します。
さらに、警察による捜査が開始されたその日の夜には、付近の西部浄化センターの公衆トイレから、何者かによって切り裂かれた浦久保充代さんの体操着と血だらけのダウンベストが発見されています。
そのすぐ後に容疑者として浮上したのが、浦久保充代さんの自宅付近に住む当時25歳の丘崎誠人でした。丘崎誠人は容疑者としてワイドショーや週刊誌の的となり、実家の自宅には連日取材陣が訪れ大きな騒動となります。丘崎誠人は痩せこけた髭面で、サンダル履きのみすぼらしい格好で押しかける取材陣を威嚇するような態度を見せ、それがさらに報道を過熱させました。
そして、同年7月25日、事件現場に残されていたタイヤのスリップ痕と公衆便所から発見された浦久保充代さんのジャージに残されたタイヤ痕が、丘崎誠人が所有していた四輪駆動車(三菱ストラーダ)のものと一致、さらにその車の後部座席からは浦久保充代さんの血液やDNAが検出された事から、奈良県警は略取誘拐の容疑で丘崎誠人を逮捕しました。
丘崎誠人は当初容疑を否認していましたが、その後容疑を認め、供述の通り三重県上野市(現在の伊賀市)郊外の山中から浦久保充代さんの白骨化した遺体が発見されました。
丘崎誠人が自供した犯行の内容
丘崎誠人は犯行の前日の5月3日、ひと月前に購入したばかりの三菱ストラーダに乗り、滋賀県のソープランドへ行き、4日に村に戻り実家自宅に向けて車を走らせていました。
そこで偶然、丘崎誠人は道を歩いている近所に住む顔見知りの浦久保充代さんを見つけ、「家まで送ってやろうか」と声をかけました。
しかし、浦久保充代さんは丘崎誠人をチラリと見ただけで、そのまま無視をするように歩き去ってしまいました。
その態度に腹を立てた丘崎誠人は、浦久保充代さんを背後から30キロの速度で車で轢き、その後、車に乗せて連れ去りました。
この時、浦久保充代さんにはまだ息がありましたが、犯行が発覚する事を恐れた丘崎誠人は殺害を決意し、伊賀県上野市の山中へと車を走らせました。
丘崎誠人は、そこで四重の紐状にしたビニールテープで浦久保充代さんの首を絞めて殺害しようとしたがうまくいかず、付近にあった重さ4.9キロの人の頭くらいの大きさの岩を、浦久保充代さんの頭部目掛けて複数回投げつけて死亡させました。浦久保充代さんの死因は左頭蓋底骨折による脳挫傷でした。
以上が、「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の概要です。
丘崎誠人は自分や家族が村の中で受けた差別の恨みが犯行動機だと供述
丘崎誠人は、警察の取り調べやその後の裁判で、浦久保充代さんを殺害した動機は、自分や家族が集落の中で受けていた差別だと供述しました。
丘崎誠人の両親は、30年以上前に隣村からこの集落に移住してきましたが、村の一員として認められる制度である「区入り」を認められておらず、そのために自分や家族が酷い差別を受けてり、その恨みから村の者に復讐してやろうと考えて犯行に及んだのだと丘崎誠人は主張したのです。
その後の裁判でも、弁護側は丘崎誠人と家族が村で差別を受け、それが犯行につながったと主張しています。一方の検察側は、浦久保充代さんの下着が刃物で切り裂かれていた事などから、性的ないたずらが目的の誘拐殺人であると主張し、双方の見解は真っ向から対立していました。
丘崎誠人が生い立ちや本人が主張する差別の内容
丘崎誠人は「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の犯行動機を自身や家族に対する差別だと主張しましたが、それには自身の生い立ちも関係しているようです。
丘崎誠人は両親と姉3人妹1人の7人家族で育ちましたが、両親の出自や特殊な家庭環境などを理由に差別を受けており、家計は極貧だったといいます。
丘崎誠人が小学3年生の頃、村の公民館が放火される事件が起こり、村人達はこれを丘崎誠人の仕業だと考え、それ以来、村内での丘崎誠人に対する目は一変し、周囲の子供達も彼を避けるようになったようです。これ以降、ビニールハウスが燃えたり、祭りの時に村の金が紛失したりするとその度に丘崎誠人は疑われたといいます。
丘崎誠人は中学2年生で不登校になり、その頃からはさらに生活が荒れ始めて家族に対して暴力を振るう事もあったようです。同級生が届けた中学の卒業証書を、丘崎誠人はその翌日には破り捨てて燃やしています。中学を不登校になった理由は教師からの体罰であったと丘崎誠人は主張しています。
丘崎誠人は高校へは進学しておらず、16歳からは大阪や東京で調理師見習いとして住み込みで働いていますが長続きせずに程なくして実家に戻っており、その後は土木作業員や警備員、左官業など職を転々としていますがいずれも長続きしなかったようです。
丘崎誠人はテレビゲームや車、ビデオにのめりこむなどし、定職にもつかなかったため、狭い村社会の中では浮いた存在であり、近隣の住人とのトラブルが絶えなかったといいます。
丘崎誠人の両親は被差別部落出身の朝鮮人と日本人のハーフだった
丘崎誠人の両親は、父親の名前は「セイジ」、母親の名前は「夏江」でした。また、丘崎誠人の両親は2人とも朝鮮人と日本人のハーフで被差別部落の出身者だったと報じられており、そうした両親の特殊な出自も丘崎誠人の家族への差別につながったと言われています。
さらに、両親は実際には事実婚関係で姓が異なり、加えて父親のセイジには愛人がおり、母の夏江は文盲で自身も親からまともな養育を受けていない事から子育てや家事などは全くせず、両親の夫婦仲は冷め切っており、家族の団欒のようなものは一切なかったと言われています。
こうした丘崎誠人の家族環境が周辺住人から異質な目で見られていた事は間違い無いと思われます。
丘崎誠人の自宅だった実家はボロボロのあばら屋でトイレすらなかった
出典:https://d2360iq24ihnyn.cloudfront.net
「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の当時、丘崎誠人の自宅だった実家は、元々は村で物置として使用されていたあばら屋で藪に囲まれた斜面に張り付くように建てられていました。この実家は、冬は隙間風が入り、家の中をネズミが走り回るような家で、風呂は薪で沸かし、「下水道敷設の分担金が支払えなかった」ためにトイレはなく、家族は外に穴を掘って用を足していたそうです。
丘崎誠人の両親は子供が生まれるたびにこの自宅を自分達で板切れを使って増築しており、斜面に沿って1階建の建物が連なっており、正面から見ると3階建に見える異様な建築物になっていたようです。
ただ、この丘崎誠人の自宅だった実家は、「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の被害者の浦久保充代さんの祖父(民生委員だった)の計らいによって借りる事ができたもので、ひと月の家賃は1万円ほど、実際には行く所の無かった丘崎誠人の両親を集落が受け入れたという側面もあったようでそれも差別意識につながったと言われています。
丘崎誠人の姉と母は村人の慰み者にされていたという噂も
出典:https://images-na.ssl-images-amazon.com/
丘崎誠人には姉が3人いましたが、長姉の環は、村に唯一の居酒屋で賄いの仕事をしていたようです。また、この姉の環が料理を覚え、家事をしない母親に代わって家族の食事を用意していたとも言われています。
「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」を扱った新潮45編集の「殺ったのはおまえだ―修羅となりし者たち、宿命の9事件」という本には、この丘崎誠人の姉と母親が村で慰み者にされていたとする衝撃的な内容が書かれています。
前述の古老は言う「夏江と娘の環は、よう似とるな。環の居酒屋の賄いは、天職やという者もおったがなあ。母親の夏江も昵懇やった男が、この村だけでも何人もいたという者もおる」仮にこの話が事実なら、家の中に閉じこもる誠人が何も感じなかったはずはない。いかに家族がバラバラでも、飾ることのない母と姉が折々にみせる気配や昂揚くらいは察知できる。村の風俗にドップリ漬かり、生々しく在り続ける母姉の存在は、おそらく誠人にとって抑圧そのものだった。
引用:新潮45編集部編「殺ったのはおまえだ―修羅となりし者たち、宿命の9事件」
丘崎誠人は幼少時代から、母親や姉の元に村の男達が通ってきて事に及んでいるのを実家自宅の隣の部屋で聞いていたそうです。姉の環は子供を産んでいますが、その父親が誰かはわからなかったと言われています。
丘崎誠人の現在① 事件から4年後の2001年に刑務所内で首吊り自殺
丘崎誠人は「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」で裁判を受け、2000年6月14日に大阪高裁によって無期懲役判決が下されています。弁護士は上告を勧めましたが丘崎誠人はこれを拒否しこの判決が確定しました。
そしてその判決から1年後、「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」からは4年後の2001年9月4日の20時頃に、丘崎誠人は収監されていた大分刑務所の独居房で、自分のランニングシャツを紐状にして窓枠にかけて首を吊って自殺しています。享年は29歳でした。
丘崎誠人が自殺した日は、浦久保充代さんの月命日でしたが、遺書などは発見されておらず、丘崎誠人が何を思って自ら命を絶ったのかは不明です。
丘崎誠人の現在② 自宅だった実家は取り壊され家族は消息不明
丘崎誠人の自宅だった実家は「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の少し後に取り壊されており、両親や姉などの家族のその後の消息も不明となっています。
事件のあった月ヶ瀬村は、2005年4月1日奈良市に合併吸収され消滅しています。
まとめ
今回は1997年に発生した「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」の犯人の丘崎誠人についてまとめてみました。
丘崎誠人は同じ集落に住む当時13歳の中学2年生・浦久保充代さんを車で撥ねた後山中に連れ去り、その頭部に人間の頭大の岩を複数回ぶつけて殺害しました。
丘崎誠人は犯行に及んだ動機は、自身や家族が村の者から差別を受けてきた恨みによるものだと主張しました。
その後の報道により、丘崎誠人の両親は2人とも朝鮮人と日本人とのハーフで、被差別部落の出身という出自から差別を受けており、丘崎誠人も少年時代から差別を受けてきた事などが明かされ、その自宅の実家のあばら屋のようなみすぼらしさや、その極貧な生活ぶりなども明かされて、この事件は別の観点から注目されるようになりました。
丘崎誠人は無期懲役判決を受けましたが、事件から4年後の2001年9月4日に収監されていた刑務所の独居房で首を吊って自殺しています。