チャールズ・ジェンキンス

曽我ひとみ夫・ジェンキンス死去…娘や現在まで総まとめ【北朝鮮拉致問題】

1970~1980年代に日本の各地で北朝鮮工作員により日本人が拉致される事件が多発しました。

 

この事件は後に「北朝鮮拉致問題」として、日本と北朝鮮の間で現在も拉致被害者の帰国について交渉が続けられています。最近になり「北朝鮮拉致問題」拉致被害者のひとり、曽我ひとみさんの夫・ジェンキンスさんが死去しました。

 

ここでは、曽我ひとみさん「北朝鮮拉致問題」の全貌、またジェンキンスさんとの結婚や娘の現在まで総まとめしました。

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみの夫・ジェンキンスの死去から見る現在

 

北朝鮮拉致問題とは?

「北朝鮮拉致問題」とは、1970年~1980年代にかけて、関東、中部地方を中心に朝鮮民主主義人民共和国の工作員、土台人、よど号グループなどによって多くの日本人が拉致された凶悪な国際犯罪事件です。

 

「北朝鮮拉致問題」は事件の発生から50年近く経った現在でも完全な解決には程遠く、拉致被害者の家族や遺族、当事者らによって北朝鮮から全ての拉致被害者奪還に向けて活動が続けられています。

 

日本政府が”確実”だと認定した拉致被害件数は12件で、拉致被害者数は17人に登ります。

 

日本政府は「北朝鮮拉致問題」が解決しない限りは北朝鮮との国交正常化は有り得ないものとコメントを出し続けていますが、北朝鮮は現在まで協力的とは言えません。

 

北朝鮮政府は日本政府が発表した17人の内13人の拉致は認めたものの、4人は入境していないとして拉致を認めず、5人はすでに日本に帰国し、残り8人はすでに死亡していると発表しました。

 

しかし、情報の確実性が無い「特定失踪者」は他にも大勢おり、日本政府が認めることができていない拉致被害者の可能性がある人は200人以上に登ると言われています。

 

帰国した拉致被害者の中に曽我ひとみさんがいますが、まずは「北朝鮮拉致問題」が起きた経緯からまずはご紹介していきましょう。

 

 

 

 

北朝鮮拉致問題が起きた経緯

「北朝鮮拉致問題」は朝鮮戦争が引き金になっている

「北朝鮮拉致問題」が起きた背景には北朝鮮と南朝鮮(韓国)を分断させた朝鮮戦争があります。

 

北朝鮮は建国された1945年9月9日当時から韓国を併合して朝鮮半島の南北統一を果たすことを標榜してきました。

 

韓国側も同様の思想を持っていましたが対話による統一を目指している反面、北朝鮮は武力行使も辞さない姿勢を取っていたため、1950年に北朝鮮が韓国に侵攻する形で朝鮮戦争が勃発しました。

 

しかし、北朝鮮が朝鮮統一の野望を果たす前に国連軍が介入して韓国防衛のために派兵し、中国人民解放軍が北朝鮮を支援したことから南北分断が決定的となり、現在まで冷戦状態が続いています。

 

北朝鮮は朝鮮戦争で荒廃した国土の復興が落ち着いてきた1960年代に入ると次なる手として韓国に対する諜報活動を開始しました。

 

 

朝鮮戦争の煽りを受けて発生した「北朝鮮拉致問題」

北朝鮮が韓国への諜報活動を激化させていく中で韓国が対策を取ったことから北朝鮮は日本人を利用したスパイの育成のために1970年代から拉致を始めました。

 

北朝鮮の韓国に対するスパイ活動は韓国当局によって多数摘発されるようになり、韓国は北朝鮮工作員に対する警戒を厳重にするようになっていきました。

 

直接韓国へのスパイ活動が難しくなった北朝鮮は、世界的に信用度の高い日本のパスポートを入手する目的や、工作員を日本人に仕立て上げるための教育係として日本人を拉致することを始めます。

 

この北朝鮮による日本人の拉致は1970年代からはじまり、日本各地で不自然な失踪を遂げる人々が続出し始めました。

 

後に警察の捜査や北朝鮮から亡命した元工作員、土台人らによる証言でこれらの失踪者が北朝鮮による拉致であることが分かり、「北朝鮮拉致問題」が浮上することとなりました。

 

 

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみが拉致された経緯

曽我ひとみさんは母親・曽我ミヨシさんと一緒に拉致された

曽我ひとみさんは1978年8月12日に母親の曽我ミヨシさんと一緒に3人の北朝鮮工作員に襲われて拉致されました。

 

曽我ひとみさんは当時新潟県真野町(現・佐渡市)に住んでおり、看護学院に通う准看護師で寮住まいだったそうです。

 

曽我ひとみさんは週末には必ず実家に帰っていたそうで、拉致された日も実家でした。

 

曽我ひとみさんの実家は貧しい家庭だったそうで、母親・曽我ミヨシさんは朝から晩まで働き通しだったそうです。

 

拉致された日は曽我ミヨシさんが仕事から帰宅して家族で夕食を食べたそうですが、翌日がお盆だったこともありお墓に添えるお赤飯の準備をしていて足りないものがあることに気づき、曽我ひとみさんは曽我ミヨシさんと一緒に近所へ買い出しに行ったそうです。

 

 

後をつけてきた3人の北朝鮮工作員

近所の雑貨屋へ買い出しに出かけた曽我ひとみさんと曽我ミヨシさんの後を3人の北朝鮮工作員がつけてきました。

 

曽我ひとみさんは自宅から500メートルほどしか離れていない雑貨屋に日暮れ頃に買い出しに行っていましたが、帰り道で曽我ミヨシさんと話をしながら歩いていると後からつけてくる存在に気づいたようです。

 

曽我ひとみさんと曽我ミヨシさんは背後の気配が気になって振り返ると3人の男が距離を置いて歩いていました。

 

曽我ひとみさんは一抹の不信感を抱いたようですが、自宅まであと100メートルというところに差し掛かると後をつけていた3人の男が走り寄って来て襲いかかってきたそうです。

 

曽我ひとみさんらは抵抗する間も無く北朝鮮工作員3人に手足を縛られて南京袋を頭から被せられて、近くの川まで担がれて行ったそうです。

 

 

拉致しやすい絶好の立地だった

曽我ひとみさんらが拉致された環境は北朝鮮工作員にとってすぐに川に出られる拉致しやすい条件が揃った土地だったようです。

 

曽我ひとみさんらが拉致された当時、川は高い土手がなく河川敷もないため、隣接する家の裏にすぐ川が走っている土地だったようです。

 

川からは船で海に出られるようになっていたため、北朝鮮工作員らは曽我ひとみさんらを担いですぐに川に出ることができ、拉致をするにはうってつけの条件が揃った土地だったようです。

 

曽我ひとみさんは川に着くと違和感の残る日本語を話す女の声を聞いたようですが、この女は後に国際指名手配された北朝鮮工作員のキム・ミョンスクという人物のようです。

 

曽我ひとみさんは小舟に乗せられて沖まで運ばれ、待機していた大きな船に乗せられて被せられていた袋を外されると、暗い船室に押し込められてしまいました。

 

そこには母親・曽我ミヨシさんの姿はなく曽我ひとみさんひとりで、突然の出来事が理解できずに恐怖から声を押し殺して泣き続けていたようです。

 

同じ拉致被害者の横田めぐみさんは同じ状況で丸2日かけて北朝鮮に連れて行かれたということから曽我ひとみさんの絶望と恐怖は計り知れなかったでしょう。

 

泣きつかれた曽我ひとみさんは寝てしまい、起きてからは到着までに男が2度ほど食事を運んできたそうです。

 

 

北朝鮮の港に着いた曽我ひとみさん

曽我ひとみさんは北朝鮮の港に着いて降ろされましたがそこに母親・曽我ミヨシさんの姿はありませんでした。

 

船を降ろされた曽我ひとみさんは車に乗せられて北朝鮮の首都・平壌に向かうことなりました。

 

車の中には威圧感のある男が乗っていたそうで、曽我ひとみさんは母親の所在について聞いたそうです。

 

するとその男は「お母さんは日本で元気に生活しているから安心していい」と言うものの、一緒に北朝鮮工作員に襲われて娘が連れ去られて元気なはずがないため、曽我ひとみさんは問答無用で黙らされてしまいました。

 

曽我ひとみさんは見知らぬ国に強引に連れて来られ、これから何が起こるのかも分からない恐怖で一杯だったことでしょう。

 

平壌への道中で一泊し、翌日の夕方には駅に着いて電車に乗り換えて平壌へ向かったそうで、平壌へ到着すると”招待所”と呼ばれる拉致被害者を居住させる施設に案内されて、そこで先述のキム・ミョンスクとの生活がスタートしたようです。

 

 

見知らぬ土地での生活を強いられた曽我ひとみさん

曽我ひとみさんは理由も分からないまま見知らぬ人間と生活をすることを強いられて、寂しさのあまり気が狂いそうな日々を送っていたそうです。

 

曽我ひとみさんは多くの北朝鮮人が何を話しているのかわからず、自分の気持ちを伝えることもできなかったため、意思疎通をできるようになるために憎しみしかない北朝鮮の言葉を覚え始めました。

 

次第に言葉を話せるようになり意思疎通ができるようになった曽我ひとみさんは、1978年8月18日から同じ拉致被害者の横田めぐみさんと8ヶ月間一緒に生活をしています。

 

曽我ひとみさんは絶望しかない北朝鮮での生活の中で、横田めぐみさんとの生活は安らげる瞬間だったことを語っています。

 

北朝鮮工作員との孤独な生活から解放された曽我ひとみさんは、横田めぐみさんとの生活で自殺したいなど嫌なことを考える時間が無くなったようで、日本で生活していた頃の話をよくしていたようです。

 

曽我ひとみさんも横田めぐみさんもいつ日本に帰ることができるかを切望していたようですが、曽我ひとみさんは2002年に帰国できたものの、横田めぐみさんは現在も帰国ができていないばかりか、北朝鮮政府からは「自殺した」として偽物の遺骨を返還されたことで遺族は怒りの声を上げていました。

 

 

朝鮮語を覚えることしか術が無かった曽我ひとみさん

北朝鮮では完全に無力である曽我ひとみさんは北朝鮮工作員に言われるままに朝鮮語を覚えるしかなかったようです。

 

曽我ひとみさんは拉致被害者の指導をしている指導員に「いつ日本に帰ることができるのか」「母親はどうしているのか」等を聞いたものの、返ってくる答えは「朝鮮語を上手くなれば日本に返してやる」という体のいい嘘だったようですが、それでも曽我ひとみさんは朝鮮語を上手くなることに集中するしか無かったようです。

 

こうした生活に曽我ひとみさんは「死んだほうがマシなほど辛かった」と語っています。

 

なお、曽我ひとみさんと一緒に拉致されたと思われていた母親の曽我ミヨシさんについては、北朝鮮政府は拉致を認めておらず、日本政府との交渉が難航しているようです。

 

 

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみ、日本へ帰国

元米兵のチャールズ・ジェンキンスさんと結婚した曽我ひとみさん

曽我ひとみさんは1980年8月に元アメリカ兵だったチャールズ・ジェンキンスさんと結婚し、1983年6月に長女を出産、1985年7月に次女を出産しています。

 

 

曽我ひとみさんは日本政府と北朝鮮政府の交渉により2002年に他の拉致被害者である地村保志さん・富貴惠さん、蓮池薫さん・祐木子さんとともに帰国しています。

 

その後、地元の佐渡市で生活している曽我ひとみさんは「北朝鮮拉致問題」を解決するために現在まで活動を続けています。

 

その中で、母親の曽我ミヨシさんの救出を求める署名活動を長年しており、2017年12月9日には佐渡市にある佐渡汽船両津港ターミナルで行いました。

 

曽我ひとみさんは政府に対しても「せめて安否の確認をして欲しい」と拉致被害者たちの現在の状況を調べるように声を上げています。

 

また、曽我ひとみさんは「北朝鮮拉致問題」が世間での関心が薄れていることに警鐘を鳴らしています。

 

2017年は北朝鮮によるミサイル発射や核実験の問題が相次ぎ、これらの挑発行動についても曽我ひとみさんは「いてもたってもいられない気持ち」と表現していますが、万が一アメリカと北朝鮮が開戦した場合に平壌は甚大な被害を受けることが想定されることを危惧しているのでしょう。

 

 

 

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみの夫・ジェンキンスの人物について

曽我ひとみの夫・ジェンキンスとは

 

 

曽我ひとみさんの夫・チャールズ・ジェンキンスさんはどういう人物?

「北朝鮮拉致問題」で度々耳にすることが多かったチャールズ・ジェンキンスさんの名前ですが、曽我ひとみさんの夫という他にどういう人物なのかを総まとめしました。

生誕:1940年2月18日
出生地:アメリカ合衆国ノースカロライナ州リッチスクエア(英語版)
出身地:新潟県佐渡市
所属組織:アメリカ陸軍
軍歴:1955 – 1965ノースカロライナ州軍、第1騎兵師団(-2004)
最終階級:Army-USA-OR-05.svg 軍曹(1965) → 二等兵(2004)

 

曽我ひとみさんの夫・チャールズ・ジェンキンスさんは本名を「チャールズ・ロバート・ ジェンキンス」といい、ノースカロライナ州リッチスクエア市で生まれました。

 

チャールズ・ジェンキンスさんは15歳の頃にノースカロライナ州軍に入隊し、1958年に連邦軍に転属することを許可されて陸軍第1騎兵師団に配属されています。

 

1960年から在韓米軍として駐屯地での勤務を始めたチャールズ・ジェンキンスさんは朝鮮半島軍事境界線の所属だったようです。

 

 

ベトナム戦争への派兵を拒んだチャールズ・ジェンキンス

1960年代からアメリカ軍が介入して激化を招いていたベトナム戦争に派兵されるということを通達されたチャールズ・ジェンキンスさんは拒んだことで人生が大きく動きます。

 

ベトナム戦争では現地のゲリラ兵により多くのアメリカ兵が命を失いましたが、激戦地だったベトナムへの派兵の噂を聞いたチャールズ・ジェンキンスさんはプレッシャーから浴びるようにお酒を飲みアルコール依存症に陥ってしまったようです。

 

そして、チャールズ・ジェンキンスさんは北朝鮮へ亡命することを決意し、前日からお酒を大量に飲んで夜間警備について翌日1965年1月4日に「騒音のする場所を見つけたので偵察に行く」と行って部隊を離れ、そのまま北朝鮮に投降しました。

 

 

すぐに帰国できるという思惑が外れたチャールズ・ジェンキンス

チャールズ・ジェンキンスさんはソビエト連邦との捕虜交換などですぐにアメリカに帰国できると考えていたそうですが、北朝鮮は帰国を許しませんでした。

 

チャールズ・ジェンキンスさんのこの行動は恥ずべきものだとしてアメリカ軍では秘匿扱いになり、階級も軍曹から二等兵に格下げになっていたようです。

 

チャールズ・ジェンキンスさんは北朝鮮政府によって工作員としての教育を施されて帰国を許されることはありませんでした。

 

その生活は過酷で、投降直後からチャールズ・ジェンキンスさんは他の米国人3人と一緒に狭い家屋で1972年まで軟禁状態で生活していたようです。

 

その間、朝鮮語を覚えさせられ、北朝鮮の”建国の父”と英雄視される金日成の言葉を暗唱させられたり、時には拷問されるなど人権を無視した扱いを受けていたようです。

 

 

ジェンキンスが曽我ひとみと結婚し2人の娘を授かる…娘の現在は

 

北朝鮮で英語教師として働かされていたチャールズ・ジェンキンスさんは、1980年に曽我ひとみさんを紹介されて結婚するように仕向けられたようです。

 

同じ囚われの身である曽我ひとみさんとチャールズ・ジェンキンスさんはすぐに心が通じ合ったのか、知り合ってから38日後に結婚し、ロベルタ・ミカ・ジェンキンスさん、ブリンダ・キャロル・ジェンキンスさんの二人の娘を授かりました。

 

 

ジェンキンスさんの娘「ミカさん」「ブリンダさん」


ミカさんは1983年、ブリンダさんは1986年に誕生しています。

 

ミカさんが結婚しているかどうかわかりませんが、現在は保育士として働いています、一方、ブリンダさんは結婚して、現在は酒造会社で働いています。


現在は、二人とも日本に帰化し、母・ひとみさんの実家がある佐渡島で暮らしているようです。

 

 

曽我ひとみと結婚した後のジェンキンス

 

曽我ひとみさんだけ先に日本へ帰国

囚われの地・北朝鮮で家族を築いたチャールズ・ジェンキンスさんですが逃亡兵だったことから、2002年に一緒に曽我ひとみさんと日本へ帰国することはできませんでした。

 

チャールズ・ジェンキンスさんは逃亡兵であったことからアメリカ政府との問題があり、娘2人と帰国を見送ることになりました。

 

しかし、2004年に日本政府がアメリカ政府と交渉したことによりチャールズ・ジェンキンスさんらの日本への入国が許可され、同年7月18日に無事曽我ひとみさんの元へ合流して家族4人で生活することができるようになりました。

 

日本での生活がスタートしてからは、チャールズ・ジェンキンスさんは佐渡市の観光施設「佐渡歴史伝説館」でずっと働いていました。

 

 

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみの夫・ジェンキンスの死去

2017年12月11日にチャールズ・ジェンキンスさんが死去

チャールズ・ジェンキンスさんが2017年12月11日に致死性不整脈により突然死去したことが伝えられました。享年77歳でした。

 

チャールズ・ジェンキンスさんは11日の夜に、自宅の玄関先で倒れているところを発見されて救急搬送されましたが、その後死亡が確認されました。

 

この突然の死去について、曽我ひとみさんは「突然のことで今は考えられない」と語っていますが、チャールズ・ジェンキンスさんが勤めていた観光施設「佐渡歴史伝説館」の館長は次のように語っています。

 

館長の松田輝義さんは「朝のニュースで知り、びっくりした。あんなに元気だったのに」と話した。「非常にまじめで、遅刻は一度もなかった。同僚にジュースやアイスをおごったり、雑談をしたりして、アイドル的な存在だった。観光客にも人気があり、電話の問い合わせもよくあった」と振り返った。

 

引用:朝日新聞 – ジェンキンス氏「アイドル的存在だった」 佐渡で悼む声

 

また、日本語が離せないチャールズ・ジェンキンスさんの通訳を13年間務めた本間啓五さんは以下のように語っています。

 

「よく自宅に遊びに行って、ご飯を一緒に食べた。酒も肉も好きで、ステーキやハンバーグ、チーズを食べたな」ジェンキンスさんは来日後に免許を取り、250ccのバイクで佐渡を走り回っていたという。「楽しい人生だったのでは。佐渡に来た時は体重が50キロなかったが、次第にふくよかになってきた」。今年は、孫が生まれたことを喜んでいた。

 

引用:朝日新聞 – ジェンキンス氏「アイドル的存在だった」 佐渡で悼む声

 

確かに、チャールズ・ジェンキンスさんはベトナムに派兵されていたらかなり高い確率で戦死していたと思いますし、北朝鮮への亡命が計画通りにいかなかったとはいえ、生涯の伴侶となり日本での楽しい生活をするきっかけとなった曽我ひとみさんと知り合えたと思えばよかったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

【北朝鮮拉致問題】曽我ひとみについて総まとめすると・・・

「北朝鮮拉致問題」での拉致被害者のひとりである曽我ひとみさんについて総まとめしてきました。

 

曽我ひとみさんは2002年に日本への帰国を果たし、その後は夫のチャールズ・ジェンキンスさんと2人の娘たちと安定した生活を送ることができていたようですが、2017年12月11日にチャールズ・ジェンキンスさんは死去してしまいました。

 

曽我ひとみさんの母親である曽我ミヨシさんを始め、多くの拉致被害者の現在の状況が分からない状態が続いていますので、一日も早い解決に向けて事態が動くことを祈るばかりですね。

 

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