2004年4月に起こった「イラク日本人人質事件」ですが、外務省からの避難勧告後に起こった事件ということもあり、世間ではバッシングの声が多かったようですね。
この記事では、「イラク日本人人質事件」の詳細、人質となった3人(高遠菜穂子・郡山総一郎・今井紀明)の現在についてまとめてみました。
この記事の目次
イラク日本人人質事件とは?イラク戦争の最中の2004年4月に起こった騒動
イラク日本人人質事件、2004年に起こっていた
「イラク日本人人質事件」とは、イラク戦争の最中の2004年4月に起こった騒動となります。
当時のイラクでは、民間人や施設を対象としたテロが相次いでおり、日本の外務省からも2004年3月19日時点で避難勧告が出ていました。
そんな外務省の勧告を無視してイラクに入国した高遠菜穂子さん(34)や郡山総一郎さん(32)、今井紀明さん(18)ら3人は、2004年4月7日になると、「サラヤ・アル・ムジャヒディン」と名乗る反米武装集団に誘拐されることになりました。
ちなみに3人は、車をシェアしてバグダットからファルージャに移動している最中に誘拐されてしまったようですね。
3人を誘拐後の「サラヤ・アル・ムジャヒディン」に関しては、「人道復興支援」のためにイラク・サワーマに駐屯していた自衛隊の撤退を要求しています。
しかしながら、当時総理大臣を務めていた小泉純一郎さんは、「サラヤ・アル・ムジャヒディン」からの要求を拒否し、地元有力者の人脈を使い人質解放の交渉をすることを選択しております。
イラク日本人人質事件、誘拐犯は実は善良な一般人だった
3人を拉致した「サラヤ・アル・ムジャヒディン」については、元々は教師や建築会社の労働者だった一般人が集まって結成した反米武装集団でした。
そのうえ、「イラク日本人人質事件」は、組織の意思ではなく一部の人間の暴走による突発的な事故だったそうですね。
そのため、予期せぬ人質を抱えることとなった「サラヤ・アル・ムジャヒディン」側も困惑をしている部分はあったそうで、拉致された後の3人は拷問を受けることもなく、丁重に扱われることになりました。
日本政府が自衛隊の撤退要求を断った後も「サラヤ・アル・ムジャヒディン」側の態度は変わらなかったそうで、解放される前日になると、3人は部屋に寝っ転がってジャッキー・チェンの映画を見るほどリラックスしていたとか。
イラク日本人人質事件、被害者家族の発言が原因で大バッシングを浴びた
「イラク日本人人質事件」に関しては、被害者やその家族に対するバッシング騒動が起こったことでも記憶に残る事件でした。
「イラク日本人人質事件」でバッシング騒動が起こった原因については、「サラヤ・アル・ムジャヒディン」からの要求を断った日本政府に対して、被害者家族たちが「見殺しにするつもりか」などと罵声を浴びせたことが世間の反感を買ってしまったようですね。
その後、地元の有力者経由での交渉が実り、2004年4月15日に解放されることになった3人は、日本に帰国しております。
しかしながら、上記の状況を周囲からレクチャーされていなかった3人は、テレビカメラを前に「また(イラクに)戻って来たい」などと呑気に語ってしまい、世間の怒りに油を注ぐ形となってしまいました。
世論が3人やその家族に冷淡だった背景には、自省のない言動への反発に加えて、「イラク日本人人質事件」解決のために、多額の税金を費やしたことも大きかったようですね。
イラク三馬鹿事件を忘れてはいけない。
— today (@rc_succession) October 23, 2018
救出の費用(税金) 20億円
ヨルダンからの債務免除要請額(税金) 2000億円
株価暴落による損失 13兆円
3人がイラクで得た自己満足 Pricelesshttps://t.co/fUqRBpmZvr
イラク日本人人質事件① 高遠菜穂子の現在
高遠菜穂子、実は資産家の令嬢だった
高遠菜穂子(たかとお なほこ)
生年月日:1970年1月14日
出身地:北海道千歳市
「イラク日本人人質事件」の被害者である高遠菜穂子さんに関しては、実家が大手電機メーカーの下請け工場を営む裕福な家庭に生まれて来ています。
高校時代より国際ボランティア関連の番組を見ることが好きで、将来はそちらの仕事に進みたいと考えていた高遠さんは、高校を卒業後は千葉県にある麗澤大学外国語学部に進学することになりました。
大学を卒業後は、青年海外協力隊の募集に応募したこともあったという高遠さんですが、残念ながら合格することはなく、ソフトウェア会社に就職するも1年で退職。
その後は、地元北海道千歳市に戻り、当時ブームだったカラオケボックスの経営に乗り出します。
地元のカラオケボックスで初めてパーティールームを作ったと豪語する高遠さんは、自店に結婚式の二次会や合コンを呼ぶ込むなど、かなりのやり手経営者でした。
元々名士の家系に生まれたうえ、本人も実業家として成功した高遠さんは、その後はカラオケボックス経営の傍らで情報誌を作ったり地元のまちづくりに参画したりと、充実していた日々を過ごしていたようです。
しかしながら、少女時代の夢を諦めきれなかった高遠さんは、30歳の時に実業家生活から足を洗い、国際ボランティア活動を開始することになりました。
2000年にインドに行き、カルカッタにある「マザーテレサの家」でボランティア活動を行う。2001年にカンボジアを訪れ、エイズホスピスで活動を始める。同年、インド西部地震のあとにカルカッタのボランティア仲間とともに救援活動にたずさわる。
引用:高遠菜穂子
高遠さんがイラクでのボランティア活動を開始したのは、2003年5月からだったそうで、バグダッド近郊のストリートチルドレンを保護したり、働き口を探す活動に従事していました。
高遠菜穂子の現在は?
「イラク日本人人質事件」後の高遠菜穂子さんに関しては、PTSDに苦しんだりバッシング報道に気落ちしたりと、色々と大変だった時期もあったようですね。
しかしながら、自身の活動に理解のあった家族たちの支えもあり、無事立ち直ることが出来た高遠さんは、事件数ヶ月後にはヨルダンに向かい海外ボランティア活動を再開。
その後、2009年4月に5年ぶりにイラクの地に足を踏み入れることが出来た高遠さんは、現地で路上生活者の支援活動などを開始することになりました。
また、「イラク日本人人質事件」により良くも悪くも有名人となってしまった高遠さんの元には、ドキュメンタリー映画「ファルージャ、イラク戦争日本人人質事件…そして」の出演オファーがあり、実際に今井紀明さんとともに映画デビューも飾っています。
近年の高遠さんは、日本での講演活動にも力を入れており、イラク情勢やISに関する講演の他、護憲運動にも携わっている状況です。
イラク支援ボランティア活動を継続して行うとともに、憲法第九条の護憲なども訴えている。集団的自衛権の行使については、「仮に自衛隊が救出に駆け付けていたら私たちは撃ち殺されていた」と主張し、反対している。
引用:高遠菜穂子
イラク日本人人質事件② 郡山総一郎の現在
郡山総一郎、「週刊朝日」の契約記者だった
郡山総一郎(こうりやま そういちろう)
生年月日:1971年11月16日
出身地:宮崎県宮崎市
最終学歴:日章学園高校自動車科卒業
「イラク日本人人質事件」の被害者である郡山総一郎さんに関しては、高校を卒業後は自衛隊に入隊しており、美容師の女性と結婚して二児の父親にもなっていましたが、自衛隊を除隊した後に離婚をしてしまったとか。
その後、地元宮崎で「雪印乳業」の牛乳を配送する大型トラックの運転手として働いていた郡山さんですが、2000年に起こった「雪印集団食中毒事件」を機に、それまでのガテン系の世界から離れ、カメラマンとして働き始めることになりました。
カメラマンとしての郡山さんは、危険を顧みずに紛争地帯の取材を続けたことが功を奏して、2001年に「イスラエルの現実」という写真で「よみうり写真大賞」の奨励賞を受賞しています。
ちなみに、郡山さんがイラクへ来訪した理由も「週刊朝日」の契約記者としての取材活動の一環でした。
郡山総一郎の現在は?
「イラク日本人人質事件」後の郡山総一郎さんについては、世間でのバッシングの声に憤慨していたようですね。
武装勢力から解放され帰国した郡山に対しては、危険な地に自ら向かった被害者が悪い、という「自己責任論」の嵐が日本で吹き荒れており、郡山は驚きを通り越して呆れたという。「なぜ自分がイラクに行き、なぜ誘拐されたかを考えた人がどれほどいたのか。国の言う自己責任は責任転嫁でしかない」と、当時の日本政府の姿勢を批判した。
引用:郡山総一郎
また、「イラク日本人人質事件」の被害者になった後も世界の紛争地を巡って取材を続ける方針は変わらなかった郡山さんは、2006年に「第7回上野彦馬賞」を受賞した他、2007年にも「ナショナルジオグラフィック」の日本版の最優秀賞を受賞しています。
そんな郡山さんのカメラマン人生の転機となったのが、2011年に起こった「東日本大震災」だったようで、以降は日本に密着して「孤独死」をテーマにした写真を撮影する社会派カメラマンに転向することになりました。
イラク日本人人質事件③ 今井紀明の現在
今井紀明、高校生時代から市民活動家だった
今井紀明(いまい のりあき)
生年月日:1985年
出身地:北海道札幌市
「イラク日本人人質事件」の被害者である今井紀明さんに関しては、小学校教師である父親と看護師である母親が共産党系の市民活動家であったと言われております。
高校時代には「NO!!小型核兵器(DU)サッポロ・プロジェクト」という市民団体の代表にもなっていた今井さんでしたが、勉強の方はそこまで得意ではなく、早稲田大学のAO入試に不合格になってしまったそうですね。
そんな今井さんがイラクを来訪した背景には、劣化ウラン弾の被害を伝える絵本を作るプロジェクトのために、イラクの現状をこの目で見たいという欲求がありました。
そのため、市民活動を通じて面識のあった高遠菜穂子さんが日本に帰国していることを知るとコンタクトを取り、「NO!!小型核兵器(DU)サッポロ・プロジェクト」の報告会に招待したりしていたとか。
今井紀明の現在は?
「イラク日本人人質事件」後の今井紀明さんに関しては、街で罵声を浴びせられたり背後から殴りかかられたりといった経験をしたせいで、引き籠り生活や英国留学生活を送っていた時期もあったようですね。
その後、立命館アジア太平洋大学に進学することとなった今井さんは、大学を卒業後は大阪の専門商社に就職したものの2012年に退職。
現在は、NPO法人「D×P」を設立し、通信制高校生向けのキャリア教育事業に携わっており、講演活動なども行っている状況だとか。
イラク日本人人質事件についてまとめてみると…
「イラク日本人人質事件」に関しては、運よく被害者たちの命は助かったものの、本人たちや家族の言動が原因となり、世間から大バッシングを浴びた騒動ということになります。
3人の今後の末長い活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。