昭和の時代の伝説的な女優である太地喜和子さんと十八代目中村勘三郎さんの過去の熱愛が話題です。
この記事では太地喜和子さんと十八代目中村勘三郎(当時は中村勘九郎)さんの熱愛の経緯や馴れ初め、共演の有無、破局原因などについてまとめました。
太地喜和子のプロフィール
太地喜和子のプロフィール
別名義 :志村妙子
生年月日:1943年12月2日
没年月日:1992年10月13日(享年48歳)
出身地 :東京都中野区
身長 :非公開
太地喜和子さんは、1960年代から1980年代にかけて活躍した女優で、全裸になる事も厭わないその艶のある演技と独特な存在感で絶大な人気を誇り、所属した文学座では杉村春子さんの後継者とも称される看板女優でした。
代表作には、映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や、ドラマ「白い巨塔」(1978年版)、NHK大河ドラマ「国盗り物語」、「風と雲と虹と」などがあります。
そして、1992年に不慮の事故により48歳という若さでこの世を去っています。
そのダイナミックさと繊細が共存したような生き様が伝説的に語られる太地喜和子さんですが、三國連太郎さんや七代目尾上菊五郎さんをはじめ、数々の大物俳優や歌舞伎役者と浮き名を流した恋多き女優としても知られており、中でも若かりし頃の人気歌舞伎俳優・十八代目中村勘三郎(熱愛当時は中村勘九郎)さんとの熱愛は今でも語りぐさになっています。
ここでは、太地喜和子さんと中村勘三郎さんとの熱愛について紹介します。
太地喜和子と中村勘三郎(18代目)の熱愛の過去
太地喜和子と熱愛関係だった中村勘三郎のプロフィール
太地喜和子さんと十八代目中村勘三郎さんが熱愛の関係にあったのは、まだ中村勘三郎さんが19歳で五代目中村勘九郎を名乗っていた頃でした。
1975年、女性週刊誌「微笑」が、当時既に若手の超人気歌舞伎俳優であった中村勘三郎さんを張り込み、太地喜和子さんとの熱愛をスクープしました。記者が直撃取材を試みたところ、感づいた中村勘三郎さんは、窓から屋根伝いに逃亡し、これも合わせて大きく報じられる事になりました。
この週刊誌報道によって、まだ19歳の中村勘三郎さんが、12歳年上の円熟した女優である太地喜和子さんと熱愛関係にあるというニュースは大きな注目を集めます。
中村勘三郎さんはかなり太地喜和子さんに入れ込んでいたようで、父親の先代中村勘三郎さんを説得して、ついに交際を認めさせています。
その後、太地喜和子さんと中村勘三郎さんの熱愛関係は3年ほども続きましたが、太地喜和子さんが34歳、中村勘三郎さんが22歳の時に破局を迎えています。
ちなみに、中村勘三郎さんは太地喜和子さんと熱愛の関係になるまで、1歳年上の女優・吉沢京子さんと交際し、結婚の約束もしており、許嫁のような関係だったそうです。
中村勘三郎さんが太地喜和子さんに乗り換えた形でした。ある日、吉沢京子さんが中村勘三郎さんの家を訪ねると、そこには太地喜和子さんが中村勘三郎さんと一緒に待っていて、ただ頭を下げながら「彼のことが本気で好きになっちゃったの。だから申し訳ないけれど、別れてもらえないでしょうか」と言ったそうです。
中村勘三郎さんもそれに続けて、「吉沢さん、ごめん。2年間待ってくれないか」と、2年間待ってくれれば太地喜和子さんと別れるので、また一緒になろうという、一般的な感覚では理解に苦しむような提案をされたそうです。
吉沢京子さんはこれに「2年も待たないわよ」と言って別れを決意されたという事でした。
太地喜和子と中村勘三郎は共演経験はない
太地喜和子さんは、多くの共演俳優と熱愛関係にあった事が知られていましたが、中村勘三郎さんとの共演の経験はありません。
2人の馴れ初めは共演ではなく、太地喜和子さんの舞台を中村勘九郎さんが観劇しに訪れた事でした。
太地喜和子さんと中村勘三郎さんの馴れ初めの詳しい内容については次の見出しで紹介します。
太地喜和子と中村勘三郎の馴れ初め
太地喜和子さんと中村勘三郎さんの馴れ初めは1975年の事でした。
当時19歳だった中村勘三郎さんは、太地喜和子さんが主演した舞台「桜吹雪 日本の心中」を観劇しました。
この舞台が凄く良かったという若い頃の中村勘三郎さんは、その次の日にも連続で同じ舞台を観に行ったそうです。ところが、その日はほとんど満席で最前列の席しか空いておらず、仕方なくそこに座られたそうです。
すると、太地喜和子さんは中村勘三郎さんの姿に舞台の途中で気が付き、最後の決め台詞である「女は桜、日本です」をじっと中村勘三郎さんの目を見つめながら言ったのだそうです。
中村勘三郎さんは突然の出来事に恥ずかしくなり、そそくさと席を立ち、楽屋に挨拶もせずに立ち去ろうとしたそうなのですが、太地喜和子さんは舞台裏の物陰から手を伸ばして中村勘三郎さんを引き留め、「あんたまた見にきてくれたのね。すぐ化粧を落として行くから待っててちょうだいね」と告げたのだそうです。
驚いた若い頃の中村勘三郎さんでしたが、その後に2人でお酒を飲みに行ったところ、太地喜和子さんが、まるで男性のようなさっぱりとした性格をしている事にさらに驚かれたのだそうです。
中村勘三郎さんはそれまで、太地喜和子さんに、色っぽい、女っぽい人だという印象を持っていたそうなのですが、あぐらをかいて酒を飲みながら芝居について語る姿に、心底驚かれたのだそうです。
その後、太地喜和子さんと中村勘三郎さんは2人で酒を酌み交わすようになり、演劇論を戦わせるうちに次第に恋仲になったという事でした。
ここまでは、中村勘三郎さんの語った太地喜和子さんとの馴れ初めのエピソードです。
太地喜和子の語った中村勘三郎との馴れ初め
一方で、太地喜和子さんの側からのこんな馴れ初めのエピソードも語られています。
中村勘三郎さんは当時、相当に太地喜和子さんに入れ込んでいて、文学座のアトリエに毎日のように芝居を見に来ていたそうです。
ある日、太地喜和子さんが自分の下駄箱を見ると、茶色い大きな紙袋が2つ置いてあり、中を見てみると、歌舞伎で使う型押しの立派な桜の花びらがいっぱいに入っていたのだそうです。
そしてその中には、少年のような字で「この花でステキなさよならして下さい。のり」と書かれた紙が入っていたのだとか。
これは、中村勘三郎さんが、この花びらを、「桜吹雪 日本の心中」の最後の幕切れの桜の花びらが舞い散るクライマックスシーンに使って欲しくて用意してきたものでした。
13歳も年下の中村勘三郎さんのこうしたアプローチを、太地喜和子さんはとてもかわいいと思われたようで、これが馴れ初めとなって2人は恋仲になっていったという事でした。
太地喜和子と中村勘三郎の破局の原因
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太地喜和子さんと中村勘三郎さんは約3年ほど熱愛の関係を続けましたが、1977年に破局を迎えています。
破局の原因となったのは、中村勘三郎さんが音楽劇「若きハイデルベルヒ」で共演した女優の大竹しのぶさん(当時20歳)に恋心を抱いてしまった事でした。
中村勘三郎さんは大竹しのぶさんへと気持ちが傾いてしまい、この舞台の間中、太地喜和子さんに1度も連絡を取らず、大竹しのぶさんと遊園地などでデートを重ねました。
しかし、舞台が千秋楽を迎えて打ち上げを終えると、中村勘三郎さんは不意に「自分が好きになっていたのは大竹しのぶではなく、大竹しのぶが演じていた町娘だった」と気がつき、途端に大竹しのぶさんへの恋心が冷めてしまったのだそうです。
それで、中村勘三郎さんは慌てて太地喜和子さんの元へと戻ったそうなのですが、時すでに遅く、太地喜和子さんの方から別れを告げられて破局となってしまいました。
ただ、太地喜和子さんの方は中村勘三郎さんの浮気心に呆れて別れを告げたというよりは、あまりにも自分に入れ込む中村勘三郎さんを見て、歌舞伎役者としての将来を心配して自ら身を引いたというのが本当の気持ちだったようです。
というのも、当時はまだ若かった中村勘三郎さんは、太地喜和子さんのこれまでの奔放な男性関係に強く嫉妬してしまい、酒を飲んで暴力を振るう事もあったのだそうです。
そうした中村勘三郎さんの様子を見た太地喜和子さんが、自分と交際しているのは中村勘三郎さんにとって良くないだろうと考えられたのが本当の破局の原因だったようです。
まとめ
今回は、昭和の時代の伝説的な女優である太地喜和子さんと、人気歌舞伎俳優の十八代目中村勘三郎さんの熱愛についてまとめてみました。
太地喜和子さんと中村勘三郎さんは共演はありませんでしたが、当時19歳だった中村勘三郎さんが、太地喜和子さんの舞台を観にきたのが馴れ初めになって熱愛に発展しました。
中村勘三郎さんは太地喜和子さんに惚れ込み、過去の太地喜和子さんの奔放な男性関係に嫉妬して酒に酔って暴力を振るう事もあったのだそうです。
太地喜和子さんと中村勘三郎さんの熱愛の関係は約3年間続きましたが、1977年に破局を迎えています。
破局の原因は中村勘三郎さんが舞台で共演した大竹しのぶさんに浮気心を抱いてしまった事だとされていますが、本当の破局原因は、太地喜和子さんが中村勘三郎さんの歌舞伎役者としての将来を心配して自ら身を引いた事だったようです。