岡山地底湖行方不明事件

津山事件30人殺し犯人・都井睦雄と寺井ゆり子の現在!事件の真相まとめ

1938年5月21日に起きた、単独殺人犯の殺人数では20世紀以降世界で5番目に多いと言われる「津山三十人殺し」と呼ばれる連続殺人事件。

 

犯人である都井睦雄が起こした「津山事件」の詳細と真相、そして幼馴染で現在まで生き残っている寺井ゆり子さんについて詳しく総まとめしましたのでご紹介します。

「津山事件」の詳細…都井睦雄が1938年5月21日に村人30人を殺害

1938年5月21日に村人30人を殺害した都井睦雄

 

一夜のうちに村人30人を殺害した近代日本史上最悪の事件

「津山事件」と聞いて現代のほとんどの人はピンと来ないと思いますが、1938年(昭和13年)5月21日に岡山県津山市加茂町行重(当時・苫田郡西加茂村大字行重)の貝尾・坂元の両集落で起きた大量連続殺人事件で、わずか2時間足らずで28人を猟銃や日本刀、斧などで殺害し、5人に重軽傷を負わせて内2名が半日の内に亡くなりました。

そのため「津山事件」は「津山三十人殺し」と呼ばれています。

 

「津山事件」の犯人は上の画像の都井睦雄という男で、1917年(大正6年)3月5日に津山市内(当時・苫田郡加茂村大字倉見)で生まれました。

 

都井睦雄は2歳の頃に父親を、3歳の頃に母親を相次いで亡くしており、どちらも当時流行していた肺結核でした。

 

両親を失った都井睦雄と姉は祖母に育てられ、塔中に一時身を寄せるも都井睦雄が6歳の頃に祖母の故郷である貝尾集落に引っ越しました。

 

都井睦雄は尋常高等小学校を卒業する頃に両親を亡くした肺結核を発症し、医師からは農作業を辞めて安静にするように言われました。

 

都井睦雄の家にはある程度の資産があったため、一家は不自由の無い生活が送れていました。

 

都井睦雄はやることが無くなって暇を持て余していましたが、徐々に肺結核の症状が落ち着いたことから実業補習学校に入学しました。

 

しかし、その頃に姉が結婚しましたが、都井睦雄は勉強をしなくなり自宅に引きこもるようになって孤独な生活を送るようになりました。

 

 

 

「津山事件」の真相…事件は許嫁・寺井ゆり子への嫉妬から起こった?

犯人・都井睦雄は村の女性複数と関係を持っていた

 

都井睦雄には幼馴染の許嫁・寺井ゆり子がいた

都井睦雄さんは村でも名士だったようで幼馴染で村一番の美人と言われた寺井ゆり子さんとは許嫁でした。

 

当時、貝尾村には”夜這い”の風習が残っており、都井睦雄は寺井ゆり子さんと結婚するつもりがありながら、手当たり次第に村の女性に手を出していたと言われています。

 

2008年7月21日放送のテレビ朝日『スーパーモーニング』内のコーナー「時空ミステリー」で、「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと証言、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。

 

引用:Wikipedia – 津山事件

 

”夜這い”は現代では無縁の風習となったものの、「津山事件」のあった岡山県では1975年(昭和50年代)頃まであったと言われており、あながち遠い昔というわけでもありません。

 

”女性進出社会”と言われる現在では想像が難しいですが、酷い男尊女卑の時代だった当時は性欲を満たしたい時に夜這いをしても罪にならず、むしろ娘が13、14歳頃になると”女にしてもらう”ために両親が夜這いされやすい環境を作るなど、常軌を逸した時代だったようです。

 

とはいえ、こうした風習は極端に狭い村社会でのみ行われていた風習で、当然それ以外の都会部で夜這いをかけるのはただの強姦であり逮捕されてしまいます。

 

都井睦雄はこの夜這いの風習を活用して、村の多くの女性と体の関係を持っていたと当時の村民の生き残りから言われています。

 

 

犯人・都井睦雄、寺井ゆり子が他の男に嫁いだことに嫉妬し犯行を決意

 

 

許嫁・寺井ゆり子が他の男に嫁いだことに嫉妬した都井睦雄

都井睦雄は肺結核であることが村に知れ渡ると、それまで関係を持っていた女性らから敬遠されるようになり、村八分を受けるようになります。

 

元々、都井睦雄は村が停電になると修理を頼まれていたようで、村人からの信頼はあったのでしょう。

 

しかし、肺結核であることが村人に広く知られるようになったことから、女性らからは敬遠されるようになり、男からは酷い差別を受けるようになったと思われます。

 

特に寺元倉一と岸本順一という男からはひどい扱いを受けていたようで、そのことをうかがわせるような内容が後述する都井睦雄の遺書に書かれてあります。

 

幼馴染で許嫁だった寺井ゆり子さんは都井睦雄に別れを告げると丹羽卯一という男性と結婚しましたが、未練があった都井睦雄が夜這いをかけてきたためそれが原因で離婚しています。

 

しかし、寺井ゆり子はとなり村の坂元集落で上村岩男という男と再婚しました。

 

差別の内容について詳しくは分かりませんが、都井睦雄の肺結核は伝染病であることから、伝染されること避けるために村中で都井睦雄を排斥していたのだと思われます。

 

また、肺結核が原因で希望していた兵役に就けなかったことから、都井睦雄は男として国に尽くして生きる道まで絶たれたと絶望していたと言われています。

 

1937年(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から都井は、それまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由として関係を拒絶されるようになった。そして、心無い風評に都井は不満を募らせていった。

 

引用:Wikipedia – 津山事件

 

 

 

犯人・都井睦雄、復讐心を募らせ犯行の準備を始める

 

都井睦雄は凶器を集め始めた

都井睦雄は自身を差別してきた村人に復讐するために殺害するための武器を集め、練習を始めました。

 

狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入した。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入した。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。

 

引用:Wikipedia – 津山事件

 

しかし、この頃都井睦雄が祖母の病気を改善させようと味噌汁にわかもとを混ぜていたところ、祖母が毒を盛られていると勘違いして警察に通報したため、駆けつけた警察に猟銃や日本刀、短刀、匕首など犯行用の武器を一切没収されてしまいました。

 

思いがけないことから振り出しに戻った都井睦雄でしたが、知り合いの刀剣愛好家から刀を譲ってもらい、知人を通じて猟銃を再び手に入れるなど、人脈の広さからも都井睦雄は肺結核さえなければひとかどの人物になっていたのかもしれません。

 

 

犯人・都井睦雄、寺井ゆり子の帰郷に合わせ犯行におよぶ

 

都井睦雄は寺井ゆり子の帰郷に合わせて実行した

都井睦雄は実家が近く関係を持っていた西山良子さんと、その友人の寺井ゆり子さんがとなり村から帰郷してきたタイミングで大量殺人の計画を実行に移しました。

 

西山良子さんの弟の結婚式に参加するために貝尾村に戻ってきましたが、それを知った都井睦雄は計画を実行する決意をしたことを後に紹介する遺書にしたためています。

 

都井睦雄は学生服に軍用ゲートルと地下足袋、そして懐中電灯2本をハチマキで頭に固定した姿はさながら鬼の角のように見えたようです。

 

1938年5月20日午後5時頃に都井睦雄は電柱によじ登って電線を切断して村中で停電が起こるように細工し、5月21日1時40分頃の村が寝静まった頃合を見計らって、都井睦雄は改造した猟銃と日本刀、匕首2振りで次々と家屋に押し入って寝ている村民を淡々と殺害して行きました。

 

都井睦雄は合計11軒に押し入って内3軒は一家全員を殺害、4軒は生存者1人、最終的な死者30人の内5人は16歳未満の子供で最年少は5歳でした。

 

都井睦雄は怒声を上げながら鬼の如く村民を惨殺して回ったため、気づいて逃げた人や、懸命に命乞いをして見逃して貰った人などいましたが、その中で”一番の裏切り者”だとして犯行のきっかけとなった寺井ゆり子さんは都井睦雄から狙われ、命からがら寺井茂吉という男の家に逃げ込み床下に隠れました。

 

「お前だけは残しちゃいけんのや!」と都井睦雄は寺井ゆり子さんめがけて猟銃を発砲しましたが、床下にいたことから命中せず喉に擦過傷を負った程度でした。

 

なお、西山良子さんの一家4人は都井睦雄に殺害されています。

 

 

犯人・都井睦雄、犯行後に遺書を遺して自殺

 

都井睦雄は自らの心臓を猟銃で打ち抜いて自殺した

約1時間半の間村民を殺害して回った都井睦雄は、となり村の家屋に上がり込み、顔見知りだった子供から鉛筆と紙を借りると遺書をしたためました。

 

 

以下が、「津山事件報告書」で伝えられている都井睦雄が残した遺書の内容です。

 

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

 

引用:Wikipedia – 津山事件

 

この都井睦雄の遺書からは、淡々と冷静に殺害していったと言われているものの、本当に殺害したかった相手を打ち損じてしまった後悔と、殺さなくても良い村民を殺した虚しさが伝わってきます。

 

 

 

「津山事件」の犯人・都井睦雄の家族と許嫁・寺井ゆり子の現在

犯人・都井睦雄の墓は現在も残されていた

現在まで残されている都井睦雄の墓

左の画像の墓標は岡山県津山市加茂町倉見にあり都井睦雄が生まれた地であり、山奥に建てられているようです。

 

都井睦雄の墓が建てられたのは、今後この地に禍が起きないように「鬼の魂を鎮める」という意味合いもあるのかもしれません。

 

都井睦雄の墓が建てられた経緯について以下のように説明されています。

 

祖母は筑波本の仮名で言えば「寺井」になっている家の出身で、親類(祖母の甥)も貝尾にいたようです。しかし、事件後はそういった親類筋にあたる家の人間も事件の犯人である睦雄を弔うわけにもいかず、睦雄と祖母の遺体を都井家の人たちが倉見まで引き取ってきて埋葬したそうです。

睦雄の姉は「せめて立派な石塔を作ってやりたい」と願った。しかし、姉の夫は「石塔なんてもってのほか。睦雄の墓だということは絶対他人に知られてはいけない」と言って、結局倉見川から拾ってきた川石を石塔代わりに睦雄の遺体を埋めた上に置いた。

 

引用:事件 – 津山事件: 都井睦雄の墓 その2

 

前代未聞の殺人鬼と化した弟・都井睦雄への姉の想いから、生前は村民からひどい差別を受けていたことで事件も仕方のなかったことだと思っていたのかもしれません。

 

 

犯人・都井睦雄の姉はうどん屋を営んでいた

都井睦雄の姉はその後うどん屋を営んでいた

左の画像は都井睦雄の姉が生前営んでいたうどん屋だと言われており、姉は1996年頃に亡くなっているようです。

 

写真を見ていただくとわかるように戸が開いています。写真には写っていませんが(写しませんでしたが)、関係者らしい年配の男性と、その男性の奥様らしい年配の女性、さらにはそのお二人の孫らしき女の子と男の子が中から出てきました。年格好から見て、おそらく男性は睦雄の姉の一人息子(睦雄の甥)ではないかと思います。とすると女の子と男の子は睦雄の姉のひ孫ということになるでしょうか。「睦雄の甥は現在別のところに住んでいる」という情報もあるので、たまたま孫を連れて里帰りしていたところだったのでしょうか。ちなみに、ぱっと見た感じはあまり睦雄に似ている感じではありませんでした。さすがに話しかける勇気はなかったのでお話は聞けませんでした……。

 

引用:事件 – 津山事件: 都井睦雄の姉のうどん店

 

 

寺井ゆり子は現在も社会から孤立して生きていた

 

 

都井睦雄が犯行を決意したきっかけを作ったと言われる寺井ゆり子さんは現在も存命だと言われており、100歳近い年齢になっていると思われますが、「津山事件」後は他の集落に移り住んだものの、そこでも”事件の発端になった人物”として敬遠され孤独に生きてきたと言われています。

 

 

 

 

 

 

「津山事件」について総まとめすると…

・「津山事件」は1938年、犯人・都井睦雄が村人30人を殺害した事件である。

・犯人・都井睦雄は、肺結核が原因で寺井ゆり子にフラれたことから犯行を決意した。

・都井睦雄の姉はその後うどん屋を経営、事件のきっかけとなった寺井ゆり子は社会から孤立して生きている。

 

1938年に岡山県の貝尾集落で起きた「津山事件」の詳細とその後現在の様子について総まとめしてきました。

 

貝尾集落出身の村民の証言では被害者は36人だという話があり、この「津山事件」にはまだまだ明らかにされていない真相が隠されていると言われています。

 

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記事へのコメント

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  1. 北九州にいるよ
  2. 津山事件。昭和13年か。戦前の時期にあんな山奥での大虐殺は想像できない事件だ。 昔住んでた俺の実家から車で40分ほどだ。 戦後になってもあの一帯は藁人形などを実際に使った人が いて、俺の親父が深夜に目撃している位、何かおどろおどろしい場所だった。 しかし、普通にはこんなことは日常では考えられない。あの時代に、何も遊ぶものがない、夜這いの風習など、ほんとにあったかどうか知らないが都井睦夫は本来は勉強のできる子供だったらしい。 近所の子供に紙芝居を見せてやってたこともある優しい青年だったとある。それが両親を結核で亡くして睦夫本人が結核になった事から人生の歯車が狂い始めた。一人いる姉の事は随分慕っていたらしい。姉も睦夫の事をずいぶん気にかけてたそうだが、姉も嫁に嫁ぎ、孤独感が強まり、そこへ村人からの心無い誹謗中傷が睦夫の隠れていた鬼を呼び起こした。 と言う所か。 俺の叔父が当時裁判官の研修生でこの事件を隣県で聞いて大変な騒ぎになったと聞いている。 睦夫の墓には戒名もないが、すぐ近くの草むらにひっそりとお地蔵さんがあり花が活けてあった。睦夫の姉が身内に判らないように安置したとも思えた。勝手な想像者より。

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