昭和の時代に活躍した女優の瑳峨三智子さんが話題です。
この記事では瑳峨三智子さんの家系図や父親や母親の山田五十鈴さんなどの家族、結婚や旦那、子供と孫、岡田眞澄さんや森美樹さん、安藤昇さんなど若い頃の恋愛遍歴、悲惨な晩年の様子や死因などについてまとめました。
この記事の目次
瑳峨三智子のプロフィール
瑳峨三智子のプロフィール
生年月日:1935年3月1日
没年月日:1992年8月19日(57歳没)
出身地 :京都府京都市
瑳峨三智子(さが・みちこ)さんは、1950年代〜1970年代にかけて活躍した女優です。
父親が俳優の月田一郎さん、母親が女優の山田五十鈴さんという芸能家族の一人娘として京都で生まれるも7歳であった1942年に両親が離婚。父親に引き取られますが1945年9月27日に父親の月太一郎さんがメチルアルコール中毒で亡くなったため、父親方の祖父母に育てられました。
その後、1952年9月に東映に入社して女優デビューし、東映映画、新東宝映画、大映映画、松竹映画などを中心に出演し、1956年には松竹に移籍して活躍を続けました。1960年代から70年代にかけてはテレビドラマでも活躍。瑳峨三智子さんは、町娘から姫まで、明るい役から影のある役まで幅広く演じ分け、何をやらせてもうまく、独特の色気は母親の山田五十鈴譲りだとして評判を呼びました。
瑳峨三智子の家系図
瑳峨三智子さんの家系図です。
次の見出しから瑳峨三智子さんの家系図の家族や結婚や旦那、交際相手など人間関係について紹介していきます。
瑳峨三智子の家族① 父親は俳優の月田一郎
瑳峨三智子の父親・月田一郎のプロフィール
本名 :築田智二郎(つきた・ともじろう)
生年月日:1909年10月11日
没年月日:1945年9月27日(35歳没)
出身地 :山口県岩国町(現在の岩国市)
身長 :5尺4寸(163.6cm)
瑳峨三智子さんの父親は、戦前の時代に、松竹蒲田撮影所、新興キネマ、東宝などで多くの映画に出演した二枚目俳優の月田一郎さんです。
瑳峨三智子さんの父親の月田一郎さんは銀座で婦人帽子店を経営する家に生まれ、早稲田小学校、東京中学校を経て法政大学へと進むも、映画俳優を志して大学を中退し1929年に松竹蒲田撮影所に入り、牛原虚彦監督の映画「山の凱歌」で俳優デビューを果たすと、1930年小津安二郎監督の「落第はしたけれど」に出演。
1931年以降、池田義信監督映画「街のルンペン」、「マダムと女房」などに出演し、1933年に新興キネマを経てた第一映画社に移籍し、1934年伊藤大輔監督映画「建設の人々」で後に結婚する山田五十鈴さんと共演。1936年に月田一郎さんは山田五十鈴さんと結婚し、その年の8月に瑳峨三智子さんが誕生しました。
瑳峨三智子さんの父親の月田一郎さんと母親の山田五十鈴さんは、夫婦で新興キネマ京都撮影所を経て東方へ移籍し、共に多くの作品に出演しましたが、1942年に離婚。ただ1人の子供である瑳峨三智子さんの親権を争って裁判となり、月田一郎さんが勝訴。瑳峨三智子さんは父親の月田一郎さんに引き取られました。
しかし、それからわずか3年後の1945年、瑳峨三智子さんが10歳の時に月田一郎さんは35歳の若さで死去しました。死因はメチルアルコール中毒でした。
瑳峨三智子の家族② 母親は女優の山田五十鈴
瑳峨三智子の母親・山田五十鈴のプロフィール
本名 :山田美津(やまだ・みつ)
生年月日:1917年2月5日
没年月日:2012年7月9日(95歳没)
出身地 :大阪府大阪市南区千年町(現在の中央区)
血液型 :A型
瑳峨三智子さんの母親は、戦前の1930年代から2000年代初めまで長きにわたって活躍した特に昭和の時代を代表する大女優として知られる山田五十鈴さんです。
瑳峨三智子さんの母親の山田五十鈴さんは、新派の舞台俳優だった父親の山田九州男さんと、北新地の売れっ子芸者だった母親の律さんとの間に大阪千年町で生まれました。
母親の律さんの「芸は身を助ける」という教育方針により、山田五十鈴さんは数え6歳の時から常磐津、長唄、清元節、日本舞踊などの稽古を積み10歳にして清元節の師匠になりました。
1930年、13歳の時に父のつてで日活太秦撮影所に入り、その年の映画「剣を越えて」のヒロイン役として女優デビュー。1年目から数多くの作品に出演し可憐なヒロイン役で一躍日活時代劇のトップ女優となりました。
山田五十鈴さんは1934年に第一映画社に移籍し、そこで将来結婚する月田一郎さんと出会っています。その後、主演した溝口健二監督の「折鶴お千」の撮影中に月田一郎さんの子供を身ごもり、1935年3月に瑳峨三智子さんを出産。
その後は、瑳峨三智子さんの父親の月田一郎さんのところでも触れたように、夫婦揃って新興キネマ京都太秦撮影所に移籍し1938年には東宝映画に入社。母親の山田五十鈴さんは次々とヒロイン役を演じてスターの地位を確立する一方で、父親の月田一郎さんは役に恵まれずに夫婦の収入格差が広がり、夫婦仲にも亀裂が入って1940年に別居となり、1942年に離婚する事になりました。
前述のように、瑳峨三智子さんは父親の月田一郎さんに引き取られています。
その後、瑳峨三智子さんが女優デビューする直前に、母親の山田五十鈴さんの願いにより、十数年ぶりの母娘の再会が果たされましたが、瑳峨三智子さんは母親の山田五十鈴さんの事を「山田さん」と呼び、周囲を驚かせました。これは、瑳峨三智子さんが親の七光りとして見られる事を嫌ったためだと言われています。
一方の山田五十鈴さんも瑳峨三智子さんに対して「女優という仕事は厳しいものです。華やかさに惹かれているなら大変な間違いです」と女優としての心持ちを諭されたのだそうです。
瑳峨三智子さんは母親の山田五十鈴さんとは、1954年の映画「唐人お吉」や「大岡政談妖棋傳 白蝋の假面」、「大岡政談妖棋傳 地獄谷の対決」、1956年「おしどりの間」、1960年映画「天下御免」、「お夏捕物帖 通り魔」、1961年「ひとり寝」、1962年「裸体」、など何度も母娘共演を果たしています。
瑳峨三智子の家族③ 祖父は新派俳優・山田九州男
瑳峨三智子の祖父・山田九州男のプロフィール
生年月日:1879年5月1日
没年 :1948年
出身地 :熊本市二本木
瑳峨三智子さんの母親方の祖父は、新派の舞台俳優で、女形として活躍した山田九州男(やまだ・くすお)さんです。
山田九州男さんは1879年5月1日に熊本市二本木の遊郭で生まれ、劇団「成美団」を設立した新派俳優・高田実に弟子入りし、1898年19歳の時に博多で初舞台を踏み、その後は女形として人気を得ました。
瑳峨三智子さんの祖父・山田九州男さんは1948年に巡業先の明石で69歳で亡くなっています。死因は「十二指腸潰瘍」でした。
瑳峨三智子の家族④ 祖母は元北新地の売れっ子芸者・律
瑳峨三智子さんの母親方の祖母は、大阪北新地の売れっ子の芸者であった律という女性でした。
母は大阪、北新地の売れっ子芸者。数え年6歳から常磐津、長唄、清元、踊りを習い、10歳で清元の名取となって生活を立てようとしたのだから、芸にかける心意気は筋金入りだった。
瑳峨三智子の結婚と旦那① 17歳で結婚、旦那は東映京都社員の友田二郎
瑳峨三智子さんは1952年に東映に入社して女優としてデビューしましたが、その翌年の1953年には17歳の若さで東映京都の社員(演技課員)だった友田二郎さんと結婚しています。
また53年、彼女は東映社員の友田一郎(のちの日活プロデューサー)と17歳の若さで結婚し、周囲を驚かせますが、55年には離婚。
しかし、瑳峨三智子さんと友田二郎さんは1955年にスピード離婚しています。
この瑳峨三智子さんの元旦那さんの友田次郎さんですが、後に日活のプロデューサーになり活躍されました。
瑳峨三智子の結婚と旦那② 俳優の岡田眞澄と婚約も2年後に解消
瑳峨三智子の旦那(未結婚)・岡田眞澄のプロフィール
本名 :鑓田眞澄(やりた・ますみ)
生年月日:1935年9月22日
没年月日:2006年5月29日(70歳没)
出身地 :フランス・ニース
瑳峨三智子さんは1962年に、俳優の岡田美澄さんと婚約を発表しました。
2人は結婚に向けて同棲もしていましたが、1964年に婚約破棄を発表しました。別れは瑳峨三智子さんの方から告げられたそうです。
瑳峨三智子に子供や孫はいない
瑳峨三智子さんには結婚歴や婚約歴はありますが、子供はおらず、当然ながら孫もいません。
瑳峨三智子さんの子供が女優の嵯峨京子さんではないかとの情報がありましたが、これは事実ではなく嵯峨京子さんは瑳峨三智子さんの子供ではありません。
瑳峨京子さんは1941年の生まれで、瑳峨三智子さんが6歳の頃に誕生しているため、子供である事はありえません。また、そもそも嵯峨京子というのは芸名で本名は新村範子さんと言います。
瑳峨三智子は俳優の森美樹と熱愛も悲劇的な結末
森美樹のプロフィール
本名 :森潤
生年月日:1934年2月5日
没年月日:1960年12月4日(26歳没)
出身地 :東京府東京市(現在の東京都)
身長 :178cm
瑳峨三智子さんは1度目の結婚と離婚の後、松竹京都撮影所の若手2枚目俳優である森美樹さんと恋仲になっています。
森美樹さんは、1954年に早稲田大学英文科を中退して松竹の俳優養成所に入り、1955年に松竹京都に入社し、この年に「顔のない男」で俳優デビュー。森美樹さんは日本人離れした端正な顔立ちと178cmのスラリとした涼やかなルックスですぐに人気を博し、1956年「京洛五人男」の沖田総司、1958年「螢火」の坂本龍馬、1959年「巌流島前夜」の宮本武蔵など、主に時代劇映画の主人公を数多く演じました。
森美樹さんと瑳峨三智子さんとは、1958年公開映画「忠臣蔵 暁の陣太鼓」、1960年公開映画「天下御免」、「おさい・権三 燃ゆる恋草」などで共演しましたが、次期出演作「あんみつ姫の武者修業」の撮影中であった1960年12月4日、京都市左京区の自宅で26歳という若さでこの世を去ります。
森美樹さんの死因は「ガス中毒」と発表され、死に方が死に方だけに自殺ではないかという噂も流れましたが、自殺をする理由などは特に見つからず、遺書などもなかったため事故死の可能性が高いとされました。
森美樹さんはその若い頃の人気ぶりから、生きていればかなりのスター俳優になったと言われており、その早すぎる死が惜しまれました。
恋人・森美樹さんの突然の死を境に、瑳峨三智子さんの精神状態や生活が乱れるようになったという話もあるようです。
瑳峨三智子は伝説の元暴力団組長で俳優の安藤昇とも恋愛関係に
安藤昇のプロフィール
生年月日:1926年5月24日
没年月日:2015年12月16日(89歳没)
出身地 :東京府豊多摩郡東大久保天神下(現在の東京都新宿区)
多くの男性俳優と浮き名を流した瑳峨三智子さんですが、伝説の元暴力団組長で、俳優として活躍した安藤昇さんとの恋愛関係でも知られています。
2人の出会いは1967年で、当時2人が所属していた太平洋テレビの社長・清水昭さんが、2人を対面させたところ、瑳峨三智子さんの方が安藤昇さんに一目惚れしてしまったそうです。
瑳峨三智子さんと安藤昇さんは1967年公開映画「日本暗黒史血の抗争」や1970年「やくざ非情史 血の決着」などで共演しています。
安藤昇さんと交際していた頃、瑳峨三智子さんは東京渋谷区の高級住宅地・松濤に200坪の敷地に建つ洋風の豪邸を自宅としていて、安藤昇さんはこの自宅をよく訪れていたようです。また瑳峨三智子さんが安藤昇さんの京都の自宅マンションを訪ねる事も度々あったという事です。
瑳峨三智子さんが病魔に冒されて、生死の狭間をさまよった時、安藤昇さんは死に水を取るつもりで甲斐甲斐しく世話をし、入院代や治療代も自身のギャラから回してもらっていたそうです。
1968年の初夏、瑳峨三智子さんは病状が回復し2人はその後1970年頃まで3年半にわたって交際を続けていたようです。
しかしこの頃、安藤昇さんは、京都祇園の芸妓「愛みつ」こと中村文柄さんとも関係を持つようになっていました。愛みつは京都の安藤昇さんの自宅マンションへ度々訪れるようになり、稽古用の三味線を安藤昇さんの自宅マンションに置いたままで芸者として座敷へ呼ばれる事もあったそうです。
そんなある日、瑳峨三智子さんが安藤昇さんに黙って、安藤昇さんの自宅マンションへやってきた事があったそうです。安藤昇さんは留守でしたが、瑳峨三智子さんはマンションの管理人に鍵を開けてもらい中へ入ったところ、愛みつが持ち込んだ三味線を見つけてしまい、安藤昇さんに芸者の恋人ができたのだと即座に悟ったのだと言われています。
瑳峨三智子さんは安藤昇さんに会う事なく、そのまま東京へと戻ってしまったのだそうです。
安藤昇さんがそんな事があったとは露知らず自宅へと帰宅。無惨に切り刻まれた愛みつの三味線を見つけて、すぐに「瑳峨三智子がやったのだろう」と悟り、これをきっかけにして瑳峨三智子さんと距離を置くようになり、2人の関係は破局したという事です。
瑳峨三智子さんと安藤昇さんの交際と破局については、大下英治さんのノンフィクション「安藤昇 侠気と弾丸の全生涯」に詳しく書かれています。
瑳峨三智子の若い頃
瑳峨三智子さんの若い頃についてももう少し触れておきます。
瑳峨三智子さんは、この記事でもすでに触れているように、父親の月田一郎さんと母親の山田五十鈴さんの離婚により、父親方に引き取られるも、父親の月田一郎さんが3年後に急死したため、以降は父親の祖父母に育てられました。
瑳峨三智子さんは父親方の祖父母に大切に育てられ、相模女子大附属高校へと進学していますが、高校在学中だった1952年に父親の月田一郎さんを知る映画業界の人々の勧めを受けて東映に入社し、女優としてデビューする事になりました。
瑳峨三智子さんは翌1953年に映画「旗本退屈男」でデビューし、1956年には松竹に移籍しつつ他社作品を含めた数の映画に出演。瑳峨三智子さんは若い頃から売れっ子の女優となり、1960年代にかけて時代劇を中心に年間十数本ペースの映画に出演しました。
若い頃の瑳峨三智子さんの代表作としては、1960年「こつまなんきん」、1962年「恋や恋なすな恋」などがあり、母親の山田五十鈴さんとの初共演作「おしどりの間」は大きな話題を呼びました。
この頃の瑳峨三智子さんは、テレビ・ラジオ・舞台などにも進出し、際立った個性、天性の色気、様々な役柄をこなせる演技力により、若い頃の瑳峨三智子さんは松竹の看板女優と見なされる存在でした。
瑳峨三智子の晩年
若い頃、一時期は松竹の看板女優の1人ともみなされた瑳峨三智子さんでしたが晩年はあまり輝かしいものではなかった事が知られています。
瑳峨三智子さんは、恋人の森美樹さんが1960年12月に急死した頃から少しずつ様子がおかしくなり、酒に溺れ、薬物(麻薬ではなく合法薬物を過剰摂取していたと言われている)に手を出し、遅刻や仕事のすっぽかし、病気や怪我での降板、恋愛スキャンダル、度重なる失踪と復帰などを繰り返しました。
結婚を約束していた岡田眞澄さんとの婚約を解消したのもそうした最中の事でした。
破滅的な行動をとるようになった晩年は芸能界に居場所がなくなり、ついには「山田五十鈴を継ぎたい」などと無理な事を言い出した事で、母親の山田五十鈴さんにも見放されてしまいました。
そして1971年、瑳峨三智子さんは膨らんだ借金の返済のために銀座でホステスとして働き始めています。しかし、この時に知り合った若い女子大生と一緒に失踪し、その5ヶ月後、この女子大生の故郷の岡山県でホステスとして働いているのが見つかります。
瑳峨三智子さんはこの女子大生をマネージャーにして再び上京し、1976年に東京赤坂のマンションを自宅件プロダクションのオフィスにして再び女優としての復帰を目指しています。しかし、仕事はほとんどなく経済的に困窮し、関係者金銭援助を求めた上にまたしても失踪。
その後はおそらく母親の山田五十鈴さんの庇護を受けて暮らしていたのではないかと言われていますが、瑳峨三智子さんは晩年は母親の山田五十鈴さんの事を「あの鬼ババ」と呼んでいたのだとか。そして、瑳峨三智子さんは1988年映画「橋」への出演を最後に芸能界を完全に引退しています。
瑳峨三智子の死因はくも膜下出血
瑳峨三智子さんは1992年8月19日に旅行で滞在していたタイの首都・バンコクで倒れ、57歳で亡くなっています。
瑳峨三智子さんの死因は「くも膜下出血」と発表されています。
92年8月6日、嵯峨三智子は観光で訪れたタイ・バンコックでくも膜下出血に見舞われて現地に入院し、19日に57歳の若さでこの世を去りました。
まとめ
今回は、1950年代〜1970年代にかけて活躍した女優の瑳峨三智子さんについてまとめてみました。
瑳峨三智子さんの家系図は芸能家族で、母親は戦前から平成まで活躍した大女優の山田五十鈴、父親は二枚目俳優の月田一郎さん、母親方の祖父は新派の舞台俳優・山田九州男さん、母親方の祖母は北新地の売れっ子芸者だった律という女性でした。
瑳峨三智子さんは女優デビューをした翌年、17歳だった1953年に結婚しています。旦那は東映京都の社員だった友田二郎さんでしたが、わずか2年で破局し離婚しています。瑳峨三智子さんには子供も孫もいません。
瑳峨三智子さんは若い頃は多くの男性俳優と浮き名を流した事でも知られていて、若手の人気俳優だった森美樹さんや一時は婚約をしながら破局した岡田眞澄さん、元暴力団組長で俳優の安藤昇さんらとの交際が話題になりました。
晩年の瑳峨三智子さんは悲惨で、薬物の過剰利用や飲酒、仕事の遅刻やすっぽかし、度重なる失踪などを繰り返し、芸能界の居場所をなくしました。最期は滞在先のタイ・バンコクで57歳で死去しています。死因は「くも膜下出血」と発表されました。