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小沢一郎の現在!学歴と経歴・嫁と息子や自宅・陸山会事件の秘書も総まとめ

政界のフィクサーと言われている大物政治家の小沢一郎さんですが、政治には興味がない政局屋との批判の声もあるようですね。

 

この記事では、小沢一郎さんの学歴と経歴、若い頃、結婚・離婚した嫁と息子、豪邸と話題の自宅、陸山会事件の秘書とスキャンダル、現在もまとめました。

小沢一郎とは

 

小沢一郎(おざわ いちろう)
生年月日:1942年5月24日
出身地:東京
所属政党:立憲民主党

 

 

小沢一郎、政治家歴50年を誇るベテランでありかつては政界のフィクサーだった

 

 

小沢一郎さんは、1969年に自民党より出馬して「第32回衆議院議員総選挙」にて初当選を果たして以降、50年以上に渡り国会議員の地位を守り続けているベテラン政治家となります。

 

政治家としての小沢さんは、選挙対策方面で無類の手腕を発揮していたため、いつしか政界のフィクサー的な権力を持つ大物へと成長しています。

 

そんな小沢さんの政治家人生においての絶頂期は1990年代となっており、自民党を離党した1993年に細川内閣誕生の仕掛け人になった他、1994年には羽田内閣を誕生させることになりました。

 

その後、2012年に民主党を離党して以降は、政局の中心地から外れていた時期もあった小沢さんでしたが、2020年になると旧国民民主党と旧立憲民主党の合併の立役者となり、再びフィクサー的な立場へと復権しております。

 

 

小沢一郎の生い立ちと若い頃…政治家の2世で慶應義塾大学出身だった

小沢一郎、父・小沢佐重喜は苦労に苦労を重ねた人生だった

 

小沢一郎さんは、本人は東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)生まれだったものの、小沢家のルーツ自体は岩手県胆沢郡水沢町(現:奥州市)にあったそうですね。

 

その水沢町の中農の出だったという小沢家ですが、祖父・徳太郎さんが大酒飲みで身持ちを崩してしまったため、父・佐重喜さんが生まれた1898年頃には田畑を手放して馬車引きの仕事をしていました。

 

当然ながら教育にも無関心だった徳太郎さんは、7人いた子供たちに対しても幼少期から家事や仕事の手伝いを強いていた挙句、学校もろくに通わせずに丁稚奉公に出していたとか。

 

 

そんな劣悪な家庭環境に育ちながらも隙を見ては学校に通い勉強に勤しんでいた佐重喜さんでしたが、尋常小学校5年終了時にいよいよ宮城県仙台市にある鍛冶屋に丁稚奉公に出されてしまうことになりました。

 

この時は鍛冶屋の主人が程なくして急死したため、15歳の時に実家に戻ることが出来たという佐重喜さんですが、故郷での暮らしに限界を感じて東京へ上京しております。

 

東京時代の佐重喜さんは、新聞配達や人力車夫の仕事をしながら下野中学校(現:作新学園)や開成中学校に通う苦学生でした。

 

開成中学校を卒業後は、鉄道省で働きながら日本大学法学部の夜間部へ進学した佐重喜さんですが、苦労が実り25歳の時に弁護士試験に合格して個人事務所を設立しています。

 

 

小沢一郎、戦時中に疎開を経験していた

 

 

弁護士事務所設立当初の小沢佐重喜さんに関しては、地縁のない叩き上げ青年へ依頼をするクライアントも少なかったらしく、あんみつ屋やおでん屋を経営しながら露口を凌いでいた時期もありました。

 

また、仕事欲しさに地元のテキ屋組織「黒門一家」の顧問弁護士を務めていたこともあったと言われております。

 

とはいえ、小沢一郎さんが生まれた1942年頃になると、佐重喜さんの弁護士事務所も軌道に乗っていた上に、政界に進出して東京府会議員まで上り詰めていたそうですね。

 

そんな恵まれた上流家庭に長男として生まれて来た小沢さんでしたが、戦禍を避けるために3歳の頃に父方の実家がある水沢に疎開する羽目になるなど、あわただしい幼少期を過ごしていました。

 

戦後になると、「黒門一家」絡みの仕事でひと財産を築くこととなった佐重喜さんは、1946年に「第22回衆議院議員総選挙」に出馬して衆議院議員となっていますが、小沢さん本人は中学2年の時まで水沢暮らしが続いたとか。

 

この黒門一家に頼まれて、敗戦後のどさくさに紛れて韓国人や中国人に渡った土地を取り戻す仕事をした。その報酬として、取り戻した土地の何割かを受け取った。このときに謝礼として受け取った小さな土地は、都内のあちこちに点在していたといわれる。これが、後に佐重喜の選挙資金の基盤になった。

 

引用:小沢佐重喜

 

ちなみに、国会議員転身後の佐重喜さんは、運輸大臣や逓信大臣などを歴任する大物政治家に成り上がることが出来ました。

 

 

小沢一郎、学歴は日本大学大学院中退だった

 

東京へ舞い戻って以降の小沢一郎さんに関しては、中学を卒業後は都立小石川高校へ進学しています。

 

高校時代の小沢さんについては、佐重喜さんが日米安全保障条約の特別委員長の大役を担っていたせいで、自宅にデモ隊が押し寄せて来たことまであったそうですね。

 

 

高校を卒業後は、慶應義塾大学経済学部へ進学した小沢さんでしたが、いざ大学で勉強をしてみると経済よりも法律方面に興味がわくことになりました。

 

そのため、慶應義塾大学を卒業後は、弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科へ進学をしております。

 

本来ならばそのまま弁護士になっていた可能性が高い小沢さんですが、大学院修士2年の5月に佐重喜さんが心不全で急死するアクシデントがあったため、父親の地盤を引き継ぐために大学院を中退して政治家に転身しています。

 

 

小沢一郎の経歴…2度の政権交代の立役者だった

小沢一郎、政治家転身後は田中角栄に師事していた

1969年12月になると、27歳の若さで自民党から出馬した小沢一郎さんは、「第32回衆議院議員総選挙」にて見事に初当選を果たしています。

 

 

政治家転身後の小沢さんは、田中角栄さんに師事していた他、田中派の中堅議員だった金丸信さんに可愛がられていたそうですね。

 

政治家としての小沢さんは、前述のように主に選挙対策方面にてその才能を発揮することとなり、頭角を現して行きました。

 

1983年の第13回参議院選挙で比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通した。その後行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は 2人擁立論を主張、谷垣禎一と野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割りで2人とも当選。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された。

 

引用:小沢一郎

 

そんな小沢さんが初入閣を果たしたのは、中曽根内閣時代の1985年となっており、自治大臣と国家公安委員会委員長を兼任することになりました。

 

 

 

小沢一郎、竹下政権下で平成の怪物へと育つ

 

 

中曽根内閣時代の小沢一郎さんですが、所属していた田中派の中で反田中角栄の動きがあり、兄貴分だった金丸信さんや竹下登さんが派内勉強会「創政会」を結成したため、そちらに合流しております。

 

その後、田中さんが脳梗塞で倒れて政治家生命を失ってしまったため、「創政会」一派は「経世会」を立ち上げて独立していますが、当然のことながら小沢さんも行動を共にすることになりました。

 

1987年11月に発足した竹下内閣では内閣官房副長官に就任した小沢さんは、内政面のみならず外交面でも辣腕を振るうことになりますが、当の竹下登さんが「リクルート事件」で辞任に追い込まれるアクシデントもありました。

 

消費税導入など税制改革を巡る国会審議の目処がたたない中、「事実上の国対委員長」と呼ばれるほどに野党対策に尽力し、民社党を審議、採決に応じさせることに成功した。こうして党内での評価を高めるとともに、この時期は外交面でも日米間の建設市場開放協議を取りまとめるなど、米政府関係者にも「タフ・ネゴシエーター」として名を知られるようになった。

 

引用:小沢一郎

 

ちなみに、「リクルート事件」後の竹下さんは、経世会会長の座を金丸さんに譲ったものの、院政を敷くなど権力の方は健在でした。

 

 

 

小沢一郎、一時は総理大臣の有力候補だった

 

 

竹下政権下で実績を積んだ小沢一郎さんは、続いて誕生した海部内閣では47歳の若さで自民党の幹事長に抜擢されています。

 

海部内閣時代には、湾岸戦争への自衛隊派遣を検討したりPKO協力法の設立に奔走することになった小沢さんでしたが、「1991年東京都知事選挙」で党内の反対を押し切りプッシュした新人候補が落選した責任を取り、幹事長を辞任する羽目になりました。

 

とはいえ、それで小沢さんの権勢が衰えることはなかったようで、海部内閣がレームダック化すると、兄貴分だった金丸信さんより自民党の総裁選に出馬するように命じられてもいたようですね。

 

本来ならば、そのまま49歳の若さで総理大臣に就任していた可能性が高い小沢さんですが、並み居る先輩政治家たちを飛び越えて首相に就任する気分にもならなかったため、総裁選への出馬を固辞しております。

 

その後行われた自民党総裁選では、金丸さんや竹下登さんと共に次期総理大臣を選ぶ立場となった小沢さんでしたが、金丸さんの強い推薦もあって宮澤喜一さんが自民党総裁になりました。

 

 

小沢一郎、宮澤喜一の裏切りに激怒して失脚に追い込んだ

 

 

宮沢政権下での小沢一郎さんに関しては、1992年になると兄貴分だった金丸信さんが「東京佐川急便事件」で失脚し、政治家生命を失うアクシデントもありました。

 

この辺の事情については、経世会内での権力闘争が関係しており、自分を凌ぐ影響力を持ち始めた金丸さんを追い落とすために、竹下登さんが暗躍したと言われております。

 

そんな竹下さんの意向を察知した宮澤喜一さんは、恩人である金丸さんを裏切り、東京地検特捜部の捜査の手が金丸さんにまで及ぶことを黙認していたとか。

 

小沢:その時になって“だから宮沢さんなんか選ぶんじゃなかった”って僕は言ったんです。当時の政治資金規正法では、政治団体の代表者は政治家本人ではなくて、ほぼ秘書がやっていた。だから絶対に政治家が捜査対象にならないようになっていた。

ところが金丸さん本人に捜査が伸びるというので、僕は官邸に電話して「おかしいじゃないか! なんで金丸さんだけが対象になるのか」って。でも、宮沢さんが電話に出なかったから、官房長官だった加藤紘一に猛抗議した。宮沢さんは見て見ぬ振りをしたんです。

 

引用:小沢一郎氏「宮沢喜一さんなんか選ぶんじゃなかった」の真意

 

 

その後、経世会内での主導権争いに敗北した小沢さんは、羽田孜さんを神輿に担ぎ上げて新派閥「改革フォーラム21」を結成しています。

 

とはいえ、そのままやられっぱなしで終わる小沢さんではなかったそうで、1993年6月に野党より内閣不信任案が提出された際には、それに便乗して宮沢内閣を解散に追い込んでおります。

 

 

小沢一郎、自民党を離党して野党へ追い落とした

 

宮沢内閣を解散に追い込んで以降の小沢一郎さんは、「改革フォーラム21」の面々を引き連れて自民党を離党し、新生党を結成しています。

 

その直後に行われた「第40回衆議院議員総選挙」では、自民党が惨敗して過半数割れするといった歴史的なイベントも起こりました。

 

 

当然ながら、このチャンスをモノにすべく精力的に動いた小沢さんは、当初は自民党と連立政権を結成しようと模索していた日本新党などを抱き込み、非自民・非共産系の8党派連立の細川内閣を発足させることに成功しました。

 

1993年8月より発足した細川内閣でも剛腕を振るうこととなった小沢さんは、「平成の統治機構改革」を邁進して小選挙区制度導入の立役者になっています。

 

とはいえ、烏合の衆をまとめ上げるほどの人望もなかった小沢さんは、激化する権力闘争の中心的人物となってしまい、嫌気がさした細川護熙さんが政権を投げ出す元凶となりました。

 

その後発足した羽田内閣でも一連の権力闘争は続き、最終的には社会党が連立政権から離脱してしまったため、史上初の野党政権は1年足らずで夢散する結末を迎えました。

 

 

小沢一郎、政界の渡り鳥化するもリーマンショックを契機に2度目の政権交代に成功

 

8党派連立政権瓦解後の小沢一郎さんに関しては、新しい政党を作っては壊す「政界の渡り鳥」化が進みました。

 

この辺の事情に関しては、あくまで政局屋に過ぎず、時流に応じて耳障りの良い政策を掲げるだけでポリシーのない小沢さんに対して、ついて行けずに離反する政治家たちが多かったようですね。

 

また、小沢さんには、自分に反論する人間を遠ざけるような狭量さもあったと言われております。

 

渡部恒三は「小沢君の周りからいつも人が離れていくのは人間性のせいだ。小沢君が「五+五=七だ」と言った時、「いいえ、五+五=十ですよ」と言い返す相手とは付き合わなくなる。ずけずけ言い返したりコントロールできるのは僕だけだった。新しい党を作る時は小沢君が必要だ。しかし党が出来ていれば小沢君は邪魔になる。その繰り返しだ」と評している。

 

引用:小沢一郎

 

 

それでも諦めない男であった小沢さんは、実業家の稲森和夫さんをパトロンにして民主党を設立し、リーマンショック後の2009年に再度の政権交代を実現させています。

 

とはいえ、民主党政権時代も権力闘争に明け暮れることとなった小沢さんは、東日本大震災直後の2011年5月に、自民党などが提出した内閣不信任案に便乗して菅内閣を攻撃するなどして、求心力の低下を招きました。

 

その後、2012年に民主党を離党して「国民の生活が第一」を設立した小沢さんですが、この頃になると小沢派と呼べる政治家たちも激減しており、泡沫政党の領袖として政局から縁遠い日々を過ごすことになりました。

 

 

小沢一郎の自宅・豪邸とは?…沖縄に別荘まで持っていた

 

 

父子2代で大物政治家だった小沢一郎さんだけあり、自宅の方も東京都世田谷区深沢に敷地面積700坪強の豪邸を構えているようですね。

 

ちなみに、超高級住宅街でお馴染みな世田谷区深沢の坪単価は204万円となっているため、小沢さんの自宅は土地代だけで14億円を超えることなります。

 

 

また、小沢さんは沖縄県宜野座村に敷地面積1500坪もの豪邸を構えていることでも有名であり、コロナ禍前には良くバカンスに出かけていました。

 

 

 

小沢一郎の家族情報…嫁・和子とは離婚していた

小沢一郎、嫁・和子とは政略結婚だった

 

 

小沢一郎さんは、1973年になると、中堅ゼネコン「福田組」の創業者一族である福田和子さんと結婚しています。

 

こちらの結婚については、和子さんの父親であり、当時「福田組」の会長であった福田正さんが(小沢さんの所属していた田中派の領袖であった)田中角栄さんの有力後援者であったため、政略結婚だったと言われております。

 

お嬢様育ちで上智大学卒の才女だった和子さんですが、政治家の妻として夫のサポートに全力を尽くすタイプの女性だったらしく、毎週のように選挙区である岩手県に足を運んでは、支援者回りに没頭していました。

 

とはいえ、有能すぎた和子さんは、同じく小沢佐重喜さんを支え続けた政治家の妻だった姑・みちさんとの間に確執もあったそうですね。

 

そのため、後に病に倒れたみちさんの介護も担当することとなった和子さんでしたが、みちさんのその日の気分によっては看病を拒まされたこともありました。

 

 

小沢一郎、2012年に和子さんと離婚していた

 

 

小沢一郎さんは、2012年になると長年連れ添った和子さんと離婚したことで世間を騒がせています。

 

政治家の妻として長年小沢さんを支え続けて来た和子さんですが、嫁姑問題や姑の介護問題の他にも、小沢さんの浮気に悩まされていたと言われております。

 

私生活では昭和の男丸出しだった小沢さんは、女性関係にだらしなく、芸能プロダクションに所属していた20代の愛人との間に隠し子を儲けてしまった過去までありました。

 

また、その隠し子は別の愛人の養子にもなっていたようで、女性からすると許せない裏切り行為を続けていました。

 

そんな心労続きだった和子さんは、やがて精神に変調をきたして小沢さんを拒むようになり、自宅内の敷地に別棟を建てて別居した後、離婚に至ることになりました。

 

 

小沢一郎の子供情報…3人の息子がいるが全員政治家とは無縁だった

 

小沢一郎さんは、和子さんとの間に3人の息子を儲けています。

 

 

小沢さんの長男については、早稲田大学理工学部を卒業した後、海上自衛隊幹部候補生学校に入り海上自衛官になったものの、2001年頃に退官をして現在は会社員をしているようですね。

 

 

小沢さんの次男に関しては、兄弟の中でも最も優秀だったらしく、東京大学へ進学したと言われております。

 

大学を卒業後の次男は、国の研究機関で働いているとの噂があるため、想像以上のエリート人生を歩んでいることになります。

 

 

小沢さんの三男については、慶應義塾大学を卒業した後、システムエンジニアの派遣社員をしているそうですね。

 

小沢家の子供たちは、どれも名門大学を卒業したエリートとなりますが、父親に苦労をかけられっぱなしだった母親を見て育っているせいか、政治の世界には一切関わっていないことが特徴的になっています。

 

 

 

小沢一郎とスキャンダル…陸山会事件では秘書が有罪となっていた

 

大物政治家にありがちな「政治とカネ」の問題ですが、小沢一郎さんも「陸山会事件」を経験しています。

 

「陸山会事件」の始まりに関しては、2006年3月に「週刊現代」が報じた小沢さんの不正蓄財疑惑が発端でした。

 

週刊現代が2006年6月3日号において「小沢一郎の“隠し資産6億円超”を暴く」と記事名で、小沢一郎の政治資金管理団体「陸山会」が所有していると報告された不動産は登記簿上の所有者は小沢となっており、個人資産との区別が不明確であると批判する記事を載せた。指摘されたのは東京都内8戸(都内の千代田区麹町、港区赤坂、青山などの都心の一等地)と盛岡市、仙台市の各1戸で計10戸の一等地の不動産であり、1994年11月から2003年3月に購入され、購入価格は6億1000万円に上った。

引用:陸山会事件

 

こちらの記事に対してただちに名誉棄損で訴えた小沢さんですが、2008年6月に敗訴が決定しています。

 

 

その後、2009年11月に市民団体より「政治資金規正法違反容疑」で告発された小沢さんは、2010年1月になると、元秘書で当時民主党所属の衆院議員だった石川知裕さんら3人が逮捕される羽目になりました。

 

 

ちなみに、「陸山会事件」では、石川さんに「禁錮2年 執行猶予3年」、逮捕時公設秘書で会計責任者だった大久保隆規さんに「禁錮3年 執行猶予5年」。同じく逮捕時私設秘書だった池田光智さんに「禁錮1年 執行猶予3年」の有罪判決が下っています。

 

当然ながら、小沢さん本人も検察審査会の判断で強制起訴されておりますが、多くの政治家の「政治資金規正法違反問題」同様に無罪を勝ち取りました。

 

 

小沢一郎の現在…旧民主党系勢力をまとめ上げるも世間の目は厳しかった

 

小沢一郎さんの近況については、2019年4月に旧民主党から分裂したした勢力の1つである旧国民民主党に、自由党の面々を引き連れて合流しています。

 

その後、自民党1強体制の打破のために、2020年9月になると同じ旧民主党系勢力である旧立憲民主党との合併の旗振り役となった小沢さんは、新立憲民主党誕生の立役者となりました。

 

とはいえ、新立憲民主党を見る世間の目は厳しく、2021年4月時点の政党支持率も6.3%と冴えない状態が続いている状況です。

 

 

 

 

小沢一郎についてまとめてみると…

 

 

小沢一郎さんに関しては、戦後日本を代表する政治家なれど、私生活の方では色々な問題があり順風満帆とはいかなかったようですね。

 

小沢さんの今後より一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。

 

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