「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た!」で知られる女優の野村昭子さんが95歳で亡くなりました。
この記事では野村昭子さんの若い頃の生い立ちや経歴、兄弟や旦那、子供などの家族、娘のように可愛がっていたという愛犬、自宅や現在、死因の熱中症などについてまとめました。
この記事の目次
- 野村昭子のプロフィール
- 野村昭子の若い頃① 叔父夫婦に養女として育てられる
- 野村昭子の若い頃② 桜蔭高等女学校を経て東京薬学専門学校女子部を卒業
- 野村昭子の若い頃③ 演劇の世界に魅せられ俳優座養成所の第1期生に
- 野村昭子の若い頃④ 俳優座の役者としてデビューし映画にも多数出演
- 野村昭子の若い頃⑤ NHK朝ドラ「おはなはん」に出演し人気女優に
- 野村昭子はその後「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た」に出演
- 野村昭子の家族① 兄弟はいるが子供時代は隔たりがあり寂しく思っていた
- 野村昭子の家族② 旦那は演出家の増見利清(故人)
- 野村昭子の家族③ 子供はおらず娘がいるという情報はデマ
- 野村昭子の自宅
- 野村昭子の現在…2022年7月1日に自宅にて95歳で死去
- 野村昭子の死因は熱中症
- まとめ
野村昭子のプロフィール
野村昭子のプロフィール
本名 :増見昭子(ますみ・あきこ)
生年月日:1927年1月2日
没年月日:2022年7月1日
出身地 :東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区)
身長 :157cm
血液型 :A型
野村昭子(のむら・あきこ)さんは、戦後の時代から活躍されていたベテラン女優で、国内でも屈指の名脇役として知られ、数々の作品に様々な役柄で出演。名前は知らなくても顔を見ればわかるといった存在でした。
野村昭子さんは、国民的人気シリーズであったドラマ「渡る世間は鬼ばかり」では、物語のメイン舞台となる小料理屋「お食事処 おかくら」の従業員・青山タキ役として21年にわたって出演。2時間サスペンスの大人気作「家政婦は見た!」シリーズでは、主人公の所属する家政婦紹介所の所長・大沢キヌヨ役(通称・会長さん)として25年にわたって出演されています。
野村昭子さんのその他の代表出演作としては、1965年の黒澤明監督映画「赤ひげ」、1966年のNHK朝ドラ「おはなはん」、テレビドラマ「白い巨塔」(1978年版)や、1980年のNHK大河「獅子の時代」、1990年映画「山田ババアに花束を」、1996年映画「眠る男」などがあります。
そんな、昭和から平成初期の時代にかけてを代表する名バイプレイヤーであった野村昭子さんですが、2022年7月1日に95歳で亡くなりました。
ここではそんな野村昭子さんについて改めて紹介していきます。
野村昭子の若い頃① 叔父夫婦に養女として育てられる
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野村昭子さんは1927年に東京の神田で生まれました。実家の家族は医療機器の卸業を営んでおり、裕福だったそうです。
幼い頃に叔父夫婦の家に養子に出され、養女として育てられています。実の両親は裕福だったそうで、貧しさのために養子に出されたわけでなく、叔父夫婦が子供に恵まれなかったというのが理由だったようです。
自分が養子である事は、まだ幼稚園にも行っていない幼い頃に、近所の人たちが話しているのを偶然聞いて知ってしまったのだそうです。
この時には自分がどこの家から養子に出されたのかはわからず、ある日、お母さん(叔母)に叱られた時に家を飛び出し、近所の人々に「私のお母さんですか?」、「私のお父さんですか?」と聞いて回ったこともあったそうです。
野村昭子さんは叔父夫婦の事は、亡くなるまでお父さん、お母さんと呼んでいたそうですが、実の両親の事はお父さん、お母さんと呼ぶことはついにできなかったのだそうです。
野村昭子の若い頃② 桜蔭高等女学校を経て東京薬学専門学校女子部を卒業
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野村昭子さんは叔父夫婦に大切に育てられ、私立の桜蔭高等女学校を経て、東京薬学専門学校女子部(現在の東京薬科大学)を、終戦翌年の1946年に卒業されています。この在学中に薬剤師免許も取得されています。
この大学在学中は戦争の真っ只中で、この時の先生が他人を「非国民」扱いするような人物だったそうです。ところが、1945年に終戦を迎えた途端に、「いい時代になった」などと言い始めて態度を豹変させたため、野村昭子さんは強い憤りを覚え、いっそ死んでやろうと思い、普段から自決用にと用意していた猛毒の青酸カリを持って友人達と共に皇居へと向かったそうです。
しかし、皇居近くについてみると、大勢の人が平伏しており、その中には平伏した姿勢のまま命を絶っている兵隊の姿もあったそうです。野村昭子さんはそうした状況を見て、急に気持ちが冷めてしまい、死ぬ事はやめて帰宅したと言います。この時、家族からは「昭子のことだからもう既に死んでいると思った」と驚かれたそうです。
野村昭子の若い頃③ 演劇の世界に魅せられ俳優座養成所の第1期生に
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東京薬学専門学校女子部を卒業した野村昭子さんは、東京大学医学部附属病院で薬剤師として働き始めました。
そんな時に、東京大学の演劇サークル「東大劇研」の舞台を手伝う機会があり、それをきっかけに演劇の世界に魅了させられ、1949年10月に開設されたばかりだった「俳優座養成所(俳優座演劇研究所付属俳優養成所)」に第1期生として入所します。
野村昭子の若い頃④ 俳優座の役者としてデビューし映画にも多数出演
野村昭子さんは、1952年に俳優座養成所を卒業して、そのまま俳優座に役者として入団し、「赤い陣羽織」という舞台で初舞台を踏んでいます。当時は、演出家で俳優座代表の千田是也さんらに厳しく指導されたそうで、当時の野村昭子さんは「完璧に台本を覚えること」と「NGを出さないこと」を信条とされていたのだそうです。
俳優座に入団した翌年の1953年には映画「思春の泉」にて、スクリーンデビューも飾っています。その後は、庶民的なイメージと確かな演技力が評価され、「白と黒」(1963年)、「甘い汗」(1964年)、「赤ひげ」(1965年)、「四谷怪談」(1965年)など多くの映画で起用されています。
特に、黒澤明監督の映画「赤ひげ」で演じた賄のおばさんの1人おふくの役で注目を集めました。
野村昭子の若い頃⑤ NHK朝ドラ「おはなはん」に出演し人気女優に
野村昭子さんは、1966年のNHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」に細倉とく役としてレギュラー出演されています。
この出演をきっかけに、野村昭子さんはテレビドラマや映画の出演作を一気に増やしました。
この頃の代表作としては、1970年公開の映画「男はつらいよ フーテンの寅」や1970年から75年まで放送されたTBSドラマ「ありがとう」などがあります。
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当時から、野村昭子さんは、口うるさい母親や、面倒見の良い近所のおばさんや大家さんなどの役柄で定評がありました。1966年放送の特撮ドラマ「ウルトラQ」の第15話「カネゴンの繭」では、カネゴンに変身してしまうお金が大好きな少年・加根田金男の母親役として出演し、その時の顔芸を交えた演技に強烈な印象を持たれている方も多いようです。
野村昭子はその後「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た」に出演
野村昭子さんはその後も数々の作品に出演し、自身の代名詞的な作品となる「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た!」に出演されています。
「渡る世間は鬼ばかり」には、1998年スタートの第4シリーズから出演されています。野村昭子さんが演じたのは、泉ピン子さん演じる主人公・五月の母親の節子の親友の青山タキの役で、主人公一家が営む、小料理屋「おかくら」を手伝うようになり、その後は女将にもなってシリーズ終了までレギュラー出演しました。
「家政婦は見た!」では、市原悦子さんが演じた主人公の家政婦・石崎秋子が所属する「大沢家政婦紹介所」の所長・大沢キヌヨ役を演じました。大沢キヌヨはかなり癖の強いキャラクターでしたが、物語にスパイスを与えたり、石崎秋子との会話で物語を整理したりする重要な役柄で、シリーズのファンにとってはかなり印象深いキャラクターでした。
野村昭子さんは「渡る世間は鬼ばかり」で共演した和泉ピン子さんからは、母親のように慕われていたそうです。
また、「家政婦は見た!」で共演の市原悦子さんは俳優座の時代からの後輩で40年来の友人関係で、自宅も近くプライベートでも親密な付き合いがあったそうです。
野村昭子さんは他にも、樹木希林さん(自宅が近所同士で、お互いに「ブス」、「デブ」と軽口を叩き合うような仲の良い友人関係だった)や、山田邦子さん、テレビプロデューサーで演出家の石井 ふく子さんとも親交が深い事が知られていました。誰とでも分け隔てなく接する人柄で、業界ではとても慕われていた人物だったようです。
野村昭子の家族① 兄弟はいるが子供時代は隔たりがあり寂しく思っていた
野村昭子さんには実の兄弟は複数人いたようです。
しかし、野村昭子さんは幼い頃に叔父夫婦の家に養子に出されたため、兄弟たちとの交流がなく、同じ小学校に通っていることを知っていても隔たりがあり、寂しさを感じる事もあったのだそうです。
ただ、野村昭子さんは晩年は甥っ子や姪っ子達にとても、尊敬され愛されていたとの報道が出ているので、おそらく大人になるにつれて兄弟達との隔たりもなくなり、仲の良い関係を築けたのだと想像されます。
野村昭子の家族② 旦那は演出家の増見利清(故人)
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野村昭子さんは1956年、29歳の時に、俳優座で演出家をしていた増見利清(ますみ・としきよ)さんと結婚されています。
野村昭子さんの旦那さんの増見利清さんは、東京府東京市赤坂区青山の出身で、1928年8月15日生まれで、野村昭子さんの1歳年下でした。
野村昭子さんと旦那さんとの馴れ初めなどは明かされていませんが、普通に劇団俳優座で知り合い、交際を経て結婚されたのだろうと思われます。
野村昭子さんの旦那さんの増見利清さんは、1951年に俳優座の演出部に研究生として入団し、俳優座代表の千田是也さんの演出助手を務めて修行を積みました。
1965年には、宮本研さんの劇曲「ザ・パイロット」の演出を担当し高い評価を得て、1968年の文化庁の芸術家在外研修員に選ばれてヨーロッパに留学しています。
帰国後にはシェイクスピアの作品の演出に力を入れ、「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リチャード三世」などを手掛けています。
その他にも、「どん底」、「天守物語」、「お気に召すまま」、「桜の園」、「村岡伊平治伝」などの代表作があり、戦後派を代表する演出家の1人でした。
俳優座では演出部長を務め、その後は、東宝現代劇附属養成所講師などを経て、晩年は鎌倉アカデミアに所属して活躍を続けられていました。
2001年12月7日に73歳で他界されています。死因は急性肺炎でした。
野村昭子さんは旦那さんの増見利清さんに先立たれた後は、再婚はされず1人で暮らされていました。野村昭子さんは旦那さんが亡くなってから3年ほどは、あまりにも悲しみが深く、亡くなる前後の事しか思い出せないほど辛い思いをされたそうです。
その後にようやく、若い頃の旦那さんとの思い出を振り返る事ができるようになったと、テレビ番組に出演された際に語られていました。
野村昭子の家族③ 子供はおらず娘がいるという情報はデマ
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野村昭子さんは旦那さんの増見利清さんとの間に子供は生まれていません。
野村昭子さんに子供がいて、娘さんだという噂がありましたが、これについては事実ではありませんでした。
親族は「子供がいなかったので“めい、おいに見送ってもらいたい”と言っていたのでそれを守りました。遺影は、テレビに出ていた頃の写真で優しいお顔です」と明かした。
ただ、野村昭子さんはメスの犬を長年飼われていて、自身の渡る世間は鬼ばかりでのタキという役柄に因んで「タッキーちゃん」と名付けて子供のように可愛がられていたようです。
野村昭子さんが、この愛犬タッキーちゃんを指して「娘」という表現を使った事があり、それが野村昭子さんには子供がいて娘という噂へと変化した可能性も考えられます。
野村昭子さんが子供のように可愛がっていた愛犬・タッキーちゃんは、ビション・フリーゼという犬種で、2015年に、野村徹子さんが「徹子の部屋」に出演された時に18歳の高齢であることを明かされていました。この主演時、野村徹子さんは愛犬・タッキーちゃんを小姑みたいと言いつつも、「ばあやになったような気持ちで世話をしている」と話されていました。
旦那さんに先立たれ傷ついていた時に、その心を慰めてくれたのがこの愛犬・タッキーちゃんだったそうです。
この愛犬は、2018年に天国へと旅立っています。
2001年に夫と死別した後、彼女のそばにいたのは、ビションフリーゼという小型犬の「タッキーちゃん」だった。名前は『渡る世間は鬼ばかり』の自身の役名にちなんだものだ。愛犬は2018年に23才で旅立ったが、人間に換算すると100才を超える大往生だった。「タッキーちゃんのお骨は海に散骨したそうです。旦那さんの遺骨も散骨済みで、自分も死後は海を漂いたいと話されていました」
野村昭子さんはこの愛犬の死後、ペットロスに苦しまれたそうですが、新聞広告で見つけたという「しゃべる犬型ロボット」を購入して、どうにかその辛さを乗り越えたそうです。
野村昭子の自宅
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野村昭子さんの自宅は、東京都港区の一等地に建つマンションです。
野村昭子さんはこの自宅近所の方に慕われていたそうで、亡くなっているのがわかったのも、近所の人々が心配して連絡した事がきっかけだったそうです。
また、野村昭子さんは自宅からタクシーに乗って、生まれ故郷の神田にある馴染みのおでん屋さんに毎日のように通われていたそうで、そこでもその人柄が大変愛されていたのだそうです。
野村昭子の現在…2022年7月1日に自宅にて95歳で死去
野村昭子さんは、2022年7月1日に自宅の寝室で亡くなっているのが発見されました。95歳でした。
野村昭子さん(のむら・あきこ=俳優、本名増見昭子=ますみ・あきこ)1日までに死去、95歳。東京都出身。一人暮らしをしていた都内の自宅で倒れているのを親族が見つけ、死亡が確認された。
野村昭子さんの自宅近所に住む方が、「1週間前は元気で歩いていたが、最近野村さんの姿を見ない」と心配して、親族に連絡し、連絡を受けた親族の方(週に2〜3日は様子を見に訪れていたという甥御さん)が、駆けつけたところ、寝室で亡くなられているのが見つかったという事です。
当初、死因は「不明」と発表されていましたが、事件性はないとの警察からの発表も報じられていました。
外傷や部屋を荒らされた形跡はなく、同署は「事件性はない」と判断した。
野村昭子さんの死去が報じられると、ネット上でも多くの悲しみの声が上がりました。
野村昭子さんと佐野浅夫さんがお亡くなりになりました。
— りつここ (@ujyk0DQMTWuBXDt) July 4, 2022
お二人共、味のある良い役者さんでしたね。
野村昭子さんのおばちゃん役が好きでした。ご冥福をお祈りします🙏 pic.twitter.com/COet9784Ya
野村昭子の死因は熱中症
その後、野村昭子さんの死因は親族から「熱中症」と明かされています。
野村昭子さんが亡くなっているのがわかった日は、東京都内の最高気温が37度を記録した日だったという事で、医師からは睡眠中に熱中症になったのが死因との見解が示されたという事です。
東京・港区にある野村さんの自宅ビル前に救急車が駆け付けたのは、都内の最高気温が37℃を記録した7月1日の夜のことだった。野村さんと親しい近隣住民から親族に「最近、野村さんを見ていない」との連絡があり、甥と警察が自宅を訪れたところ、ベッドルームで倒れて帰らぬ人となった彼女を発見したという。死因は熱中症とみられており、東京に「熱中症警戒アラート」が発表された灼熱のなかでの悲劇だった。
まとめ
今回は、戦後の時代から活躍された女優で、「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た!」などの大人気作に長年レギュラー出演した事で知られる野村昭子さんについてまとめてみました。
野村昭子さんの若い頃は、幼少期に叔父夫婦の家に養子に出され、養女として育った生い立ちを持ち、桜蔭高等女学校を経て、東京薬学専門学校女子部を卒業後、東大附属病院で薬剤師として働かれていた頃に演劇の世界に興味を持って、俳優座養成所に入所したという経歴を持ちます。
俳優座養成所を卒業後は、そのまま俳優座に入団して役者としてデビューし、確かな演技力と実直な人柄で高い評価を得て、舞台だけでなくドラマや映画などに多数起用されています。
1966年のNHK朝ドラ「おはなはん」への出演をきっかけにしてテレビドラマへの出演を増やし、下町のおばさん、口うるさいお母さん、世話焼きの大家さんや食堂のおばちゃんといった庶民的なイメージを定着させ、お茶の間の人気を得ました。
その後は、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に1998年から2019年のシリーズ終了(スペシャルドラマ版含む)まで21年にわたって出演、2時間ドラマの名作「家政婦は見た!」シリーズでも1983年放送の第1作から2008年のシリーズ終了までレギュラー出演し、誰もが知っている女優となりました。
家族については、幼い頃に養子に出された事もあった、兄弟とは隔たりがあり寂しさを感じた事があったそうですが、養父母である叔父夫婦には大切に育てられたようです。結婚は1956年29歳の時で、旦那さんは俳優座の演出をしていた増見利清さんでした。
増見利清さんとの間には子供はいませんでしたが、長年雌犬のタッキーちゃんを飼い、本当の子供や娘のように可愛がられていたようです。
現在については、2022年7月1日に95歳で亡くなっています。死因は親族から「熱中症」と発表されています。