徳川慶喜家第5代当主・山岸美喜さんの家じまいが話題になっています。
この記事では山岸美喜さんの家系図と徳川家康や徳川家広との関係、親や兄弟など家族、高校や大学など学歴、若い頃の経歴と旦那さんとの結婚や子供、現在の家じまいや墓じまいの取り組みについてまとめました。
この記事の目次
山岸美喜は徳川慶喜の玄孫で「家じまい」と「墓じまい」を宣言

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の玄孫(やしゃご)であり、旧公爵徳川慶喜家の第5代当主を務める山岸美喜(やまぎし・みき)さん。2023年に当主への就任と同時に、歴史ある名家の「家じまい(絶家)」と「墓じまい」を宣言したことで、日本中に大きな衝撃を与えました。
由緒正しき徳川家の血を引きながらも、長年「普通の専業主婦」として名古屋で暮らしてきた彼女が、なぜ重責を背負い、そして自らの代でその歴史に幕を下ろす決断をしたのでしょうか。
この記事では、山岸美喜さんの家系図(徳川家康・徳川家広・徳川慶喜との関係)や、親や兄弟など家族、若い頃と高校や大学などの学歴、外資系企業から駐在妻を経た経歴、結婚と旦那と子供などのプライベート、そして現在進行中の家じまい・墓じまいについてを詳しくまとめて解説していきます。
山岸美喜の家系図と歴史的背景…徳川家康や宗家当主・徳川家広との関係
山岸美喜さんを語る上で欠かせないのが、日本史上最も有名な一族である「徳川家」の壮大な家系図です。彼女の血脈は、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康にまで遡ります。
山岸美喜の家系図① 徳川慶喜家の創設と徳川宗家(徳川家広)との関係

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徳川家と一口に言っても、実はその内部には複数の系統が存在します。家康以降、将軍家である「徳川宗家」をはじめ、「御三家(尾張・紀伊・水戸)」や「御三卿(田安・一橋・清水)」など、時代とともに枝分かれしていきました。
現代においても、三つ葉葵の家紋を持つ家が集まる「葵交会(きこうかい)」には、松平家なども含めて35家が名を連ねています。
山岸美喜さんの高祖父にあたるのが、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜です。慶喜はもともと水戸徳川家に生まれ、一橋家を継いだ後に将軍となりました。
1867年の「大政奉還」によって朝廷に政権を返上し、江戸幕府は終焉を迎えます。この際、慶喜は朝敵とされたため、徳川家の家督(宗家)は田安家から養子に迎えた徳川家達(いえさと)に譲りました。
現在、この徳川宗家の第19代当主を務めているのが、政治経済評論家や翻訳家としても知られる徳川家広(とくがわ・いえひろ)氏です。
山岸美喜さんと徳川家広氏は、家系図上で「三従兄弟(みいとこ/曽祖父の兄弟のひ孫同士)」にあたる親戚関係にあります。
一方、徳川慶喜は長らく静岡で謹慎生活を送っていましたが、明治35年(1902年)に明治天皇からこれまでの功績(江戸無血開城など)を高く評価され、新たに公爵の爵位を賜りました。
この時に徳川宗家から分家する形で創設されたのが、山岸さんが当主を務める「徳川慶喜家」です。つまり、徳川慶喜家は徳川家の中でも極めて特殊で、宗家と同等の格式(公爵家)を持つ筆頭格の家系なのです。
山岸美喜の家系図② 華麗なる血脈:松平容保や有栖川宮家も

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山岸美喜さんの家系図が圧巻なのは、徳川家だけにとどまりません。もう一人の高祖父には、幕末の京都守護職であり、新選組を配下に置いたことで知られる会津藩第9代藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)がいます。
さらに、母方の曾祖母(慶喜の七男・慶久の妻)である實枝子(みえこ)女王は、皇族である有栖川宮威仁親王の娘です。大伯母にあたる宣仁親王妃喜久子(高松宮妃)など、皇室との深いつながりも持っています。
山岸美喜の親や兄弟など家族…深川家として育った生い立ち

これほどのスーパーエリート家系に連なりながらも、山岸美喜さん自身は「徳川」の姓を持って生まれたわけではありません。ここには、現代日本の家族制度と戦後の華族制度廃止が大きく関係しています。
山岸美喜の家族① 祖父母と両親

山岸美喜さんの祖父は、徳川慶喜家の第3代当主・徳川慶光(よしみつ)です。祖母の徳川和子さんは、後に美喜さんのプロデュースによって『みみずのたわごと』という手記を出版することになる人物です。
この祖父母の間に生まれたのが、美喜さんの母親・安喜子(あきこ)さん(1941年〜1995年)です。安喜子さんは由緒正しき徳川家の娘として育ちましたが、深川行郎(ふかがわ・いくお)氏(美喜さんの父親)と結婚したことで、姓が「深川」となりました。
そのため、1968年(昭和43年)6月25日、東京都で生まれた美喜さんの旧姓は「深川」であり、生まれた時から「徳川美喜」であったわけではありません。
山岸美喜の家族② 兄弟と叔父・徳川慶朝の存在

山岸美喜さんは、深川家の4人兄妹の末っ子として育ちました。上には康行さん、洋行さんという二人の兄弟(兄)がいます。
山岸美喜さんの人生に最も大きな影響を与えた家族の一人が、母・安喜子さんの弟であり、美喜さんにとっては叔父にあたる徳川慶朝(とくがわ・よしとも)氏です。
慶朝氏は徳川慶喜家の第4代当主であり、フリーランスの写真家として活躍しました。また、大変なコーヒー好きであった曾祖父・慶喜のエピソードをもとに「徳川将軍珈琲」をサザコーヒーと共に開発したことでも知られています。
山岸美喜さんは幼い頃からこの叔父を「アンクル」と呼んで慕い、大変可愛がられて育ちました。実は後に彼女が第5代当主に指名される背景には、この叔父と姪の深い信頼関係があったのです。
第4代徳川慶喜家当主の徳川慶朝は
— 山岸美喜 Miki Yamagishi (@yamagishimadam) November 13, 2023
とても遠慮深く
決して怒らず
黙って耐えている事が多かったです。
もっと怒っていい場面も沢山あったのですが
しょうがないよね。
と悲しそうな目をしていました。
そんな叔父をよく理解していたので
あまりに気の毒で。。。
つづく pic.twitter.com/AHyZ93VORL
山岸美喜の若い頃と経歴① 高校や大学などの学歴
「徳川慶喜の玄孫」という肩書きを聞くと、学習院などの名門校から一流大学へと進学する絵に描いたようなお嬢様ライフを想像しがちですが、山岸美喜さんの若い頃や学歴は、少し異色のルートを辿っています。
山岸美喜の若い頃と学歴① 高校時代の部活動とコンプレックス
山岸美喜さん自身、自身のブログやインタビューで「昔は勉強があまり好きではなく、大した成績でもなかった」と率直に語っています。
高校時代は吹奏楽部に所属し、フルートの演奏に熱中しました。この時のフルートの経験は、その後の彼女の人生を彩る生涯の趣味となっていきます。
また、学生時代は周囲に「徳川慶喜の玄孫であること」を積極的に話すことはありませんでした。歴史の授業で歴代将軍の名前を全て言えるわけでもなく、徳川の名前を出すと「徳川埋蔵金があるの?」とお金の話ばかりされるのが嫌だったと振り返っています。
なお、山岸美喜さんの出身高校名は公表されていませんが、公立の高校だったそうです。
山岸美喜の若い頃と学歴② イギリス・ロンドンでの大学生活

高校卒業後、山岸美喜さんは日本の一般的な大学には進学せず、イギリスへ留学する道を選びました。
最初はロンドンの語学学校に籍を置きながら進学先を探し、最終的にウォータールーにある「ロンドンシティカレッジ(London City College)」に進学しました。
ここで彼女が専攻したのは、国際船舶貿易という非常に実務的な分野です。インコタームズ(貿易条件)やロイズ保険組合を中心とした保険制度、さらには当時出始めだったパソコンのプログラミング言語(BASIC)などを実践的に学びました。
しかし、目的が曖昧なままの勉強に対して「学んだことが本当に自分の身になっているのか」という疑問や、日本の大卒資格を持っていないことへの学歴コンプレックスを、若い頃の山岸美喜さんは密かに抱えていたそうです。
山岸美喜の若い頃と経歴② 外資系企業の秘書から駐在妻を経て専業主婦へ
山岸美喜の若い頃の経歴① ジャーディン・マセソンでの勤務と結婚による退職
イギリスでの留学生活を終えて帰国した山岸美喜さんは、香港を拠点とする世界的な名門外資系商社「ジャーディン・マセソン」の日本法人に就職します。そこで、実業家・安田弘氏の秘書アシスタントとして働き始めました。
しかし、そのキャリアは長くは続きませんでした。ロンドン留学時代に出会った男性(当時駐在員だった日本人男性)との結婚が決まり、わずか1年数ヶ月で会社を退職することになったのです。
山岸美喜の若い頃の経歴② ロンドンでの「駐在妻」生活の葛藤

結婚後、旦那さんの仕事の都合で再びイギリスに渡ることになり、山岸美喜さんは「駐在員の妻(駐在妻)」としての生活をスタートさせます。延べ8年間に及んだイギリス生活ですが、駐在妻としての現実は決して華やかなだけではありませんでした。
当時の企業文化もあり、駐在員の妻が現地で働くことは推奨されず、ワークパーミット(就労許可)があっても家で過ごす日々が続きました。最初は「暇すぎてすることがない」と悩み、旦那さんの仕事に合わせた生活を守るための“暇つぶし”として、日本文化を教えるボランティアや、エステ、お稽古事に通う日々を送りました。
そんな中で本格的に始めたのがゴルフでした。イギリスのゴルフ環境は素晴らしく、キャディーもつけずに自らバッグを担いでラウンドする生活の中で、山岸美喜さんはゴルフにのめり込んでいったそうです。
山岸美喜の若い頃の経歴③ 名古屋での「普通の専業主婦」生活
1998年、旦那さんが本社勤務となったため、夫婦は日本へ帰国します。夫の地元である愛知県名古屋市に居を構え、最初は会社借り上げのアパートから始まり、翌年には一軒家を、続いて長野県の蓼科に別荘を購入し、ローンを組んで生活の基盤を築きました。
帰国後、山岸美喜さんは特定の職業に就くことはなく、「専業主婦」として20年以上の歳月を過ごします。名古屋には当初知り合いが誰もいませんでしたが、得意のフルートやゴルフを通じて自らコミュニティを広げていきました。
フルートでは「大阪国際音楽コンクール」のアマチュア部門で東京本選金賞を受賞するほどの腕前となり、40歳からはチェロの演奏も始めました。現在ではアマチュアオーケストラ「オーケストラ・コンチェルタンテ」の団長を務めるなど、音楽を通じた文化活動に深く貢献されています。
2024年の国民文化祭(岐阜県)では、骨折(ヒビ)を負った状態で痛み止めを飲みながらマーラーの交響曲第1番を演奏したという、情熱的でバイタリティあふれるエピソードも自身のブログで明かしています。
山岸美喜の結婚と旦那と子供

山岸美喜さんの人生において、結婚した旦那(夫)の存在は、彼女の人間形成に極めて大きな役割を果たしました。
コンプレックスを打ち砕いたエリートの旦那(夫)
山岸美喜さんの旦那さんは、世界トップクラスのビジネススクールである「ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)」でMBA(経営学修士)を取得し、最優秀の成績で卒業したという、桁外れに頭脳明晰な人物です。
学歴にコンプレックスを抱いていたという山岸美喜さんにとって、そんな旦那さんは驚きと尊敬の対象でしたが、同時に旦那さんは彼女に大切なことを教えてくれました。
「人間の価値は、学歴や家柄ではない。過去(学歴や成績)にこだわるのは、現在が充実していないことを自ら説明しているようなものだ」という旦那さんの言葉が、山岸美喜さんの心を軽くしたのだそうです。
「自分が努力して手に入れたわけではない『家柄』を評価されても戸惑う。それよりも、積み重ねて学んだことを活かしている人を尊敬する」という美喜さんのフラットで実直な価値観は、この旦那さんとの対話の中から育まれたものなのでしょう。
子供がいない事実と直系子孫としての宿命
プライベートな家族構成において重要なポイントは、山岸美喜さんご夫婦には子供がいないということです。
海外メディア(クーリエ・ジャポン)の報道などでも、「子供のいない姪の山岸」と明記されており、彼女自身に次世代へ血脈を受け継ぐ実子がいなかったことが、後の「徳川慶喜家の家じまい」という歴史的決断に直結していくことになります。
もし山岸美喜さんに子供がいれば、第6代当主として家督や墓の管理を引き継がせるという選択肢もあったかもしれませんが、継承者がいないという現実が、彼女に「自分の代で全ての責任を負って終わらせる」という覚悟を決めさせたという事です。
山岸美喜の叔父の闘病と第5代当主への就任

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名古屋で趣味と主婦業を両立させる平穏な日々を送っていた美喜さんに、運命の転機が訪れたのは2014年1月のことでした。
叔父・徳川慶朝との最期の日々
「叔父(第4代当主・徳川慶朝)の食道と咽頭にがんが見つかった」という知らせを受けた山岸美喜さんは、遠く離れた名古屋から献身的に叔父の看病やサポートを続けました。慶朝氏にはかつて結婚して子供(息子たち)もいましたが、離婚後に疎遠になっていました。
病床の叔父と向き合う中で、二人は互いの人生観や「何が一番大切か」を深く語り合いました。そして2017年9月、慶朝氏は67歳でこの世を去ります。
遺言による想定外の当主指名
叔父の死後、山岸美喜さんを待っていたのは驚くべき事実でした。慶朝氏の遺言書には、徳川慶喜家の当主の座と、慶喜ゆかりの6000点にも及ぶ歴史的資料や写真、そして広大な墓所の管理を「姪の美喜に譲る」と記されていたのです。
この指名は、親族間や周囲に少なからぬ波紋を呼びました。「女性が徳川家の当主になるなど考えられない」、「兄(深川家の長男・次男)の方がふさわしいのではないか」、「遺産目当てではないか」といった心無い言葉や、法的な軋轢、親族からの反発にも直面しました。
さらに、「徳川」の姓を名乗っていない女性が当主になることへの旧華族社会(霞会館や葵交会)の複雑な規定もあり、彼女は伝統的なコミュニティの正式メンバーにはなれないというジレンマも抱えていました。
それでも山岸美喜さんは、「兄たちではなく、私に信頼を寄せてくれた叔父の遺志を尊重したい」と決意します。
数年間にわたる膨大な資料整理と法的手続きを経て、2023年1月、山岸美喜さんは正式に「旧公爵徳川慶喜家 第5代当主」に就任しました。徳川の歴史上、初の「女性祭祀継承者」の誕生でした。
山岸美喜の現在…歴史を閉じる決断「家じまい」と「墓じまい」

第5代当主となった山岸美喜さんが現在直面し、実行に移している最大のプロジェクトが、日本中で話題となっている徳川慶喜家の「家じまい(絶家)」と「墓じまい」です。
300坪の墓所と莫大な維持費
東京都台東区の谷中霊園にある徳川慶喜家の墓所は、広さなんと300坪に及びます。そこには、慶喜と正妻・美賀子、側室、そして歴代の家族らが眠っています。
しかし、現代においてこの巨大な墓所を個人で維持管理することは非現実的でした。慶喜の名前が刻まれた石は削れ、墓を囲う塀は一部が崩れ落ちており、塀を修理するだけでも約3000万円という莫大な費用がかかる状態でした。
名古屋に住む山岸美喜さんが、遠方から個人資産で管理し続けることには限界がありました。
「負の遺産」を残さないための責任
山岸美喜さんは、メディアの取材に対してこう語っています。
「ご先祖様がいらっしゃるところを『負の遺産』と言うのは申し訳ないが、かかる負担が非常に大きい。子孫や親族の責任から外れさせていただき、しかるべき公の場所にお渡ししようとしている」
「家を守るために、家をしまう」——これが山岸美喜さんの出した答えでした。自分が当主であるうちに墓じまいを行い、6000点に及ぶ歴史的資料(慶喜直筆の書や油絵など)は博物館や自治体などの公的機関に寄贈することで、“家族の歴史”を“日本の歴史(公有財産)”へと移行させる作業を進めています。
現代への発信と著書の出版

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こうした前代未聞の「名家の家じまい」は、少子高齢化や後継者不足に悩む現代日本社会の「墓じまい」問題と重なり、大きな反響を呼びました。
山岸美喜さんは現在、ニュース番組やABEMA Prime、テレビ朝日の『プラチナファミリー』など多数のメディアに出演し、名家を守る重圧や絶家の真意について積極的に発信しています。
また、2020年には祖母・徳川和子さんの手記をまとめた『みみずのたわごと』を出版。さらに2026年6月には、自身初の単著エッセイ『葵の紋を継ぎまして。』をKADOKAWAから上梓し、歴史に翻弄されながらもたくましく生きる一族の姿と、女性当主としての葛藤と決意を世に問いました。
まとめ
今回は、旧公爵徳川慶喜家の第5代当主・山岸美喜さんについてまとめてみました。
山岸美喜さんの歩みは、「徳川将軍家の末裔」というきらびやかなイメージとは裏腹に、極めて現実的で地に足のついたものです。
徳川家康・慶喜という日本史のトップに連なりながらも、自身は深川家で育ち、学歴コンプレックスを抱えながらロンドンで実学を学びました。
私生活では、駐在妻の苦悩を経験し、価値観を広げてくれた夫と名古屋で結婚生活を送り、音楽やゴルフを愛する専業主婦として生活されています。
そして、子供がいない自身の代で、親族の反対や世間の好奇の目に晒されながらも、先代(叔父)の思いを背負い、300坪の墓地と6000点の史料を公に還す「家じまい」を実行しています。
「過去の栄光にすがるのではなく、手放すことで未来へ繋ぐ」。
山岸美喜さんが下した「絶家」という決断は、決してネガティブなものではありません。それは、血脈という見えない呪縛から子孫を解放し、個人の幸せと社会的責任を両立させる、現代日本における最も新しい「継承」の形を提示していると言えるでしょう。


















